エンゼルフィッシュ 何の気まぐれか彼が金魚を見たいと言い出したので、一昨日から金魚屋に通い詰めている。 入り口から二つ目の通路の奥。湿ったコンクリートからは水が腐ったような臭いがしている。 何段にも積み上げるように陳列してある水槽の一つに、手のひらより少し小さい程度の赤い金魚 が入っていた。薄暗い店内では、目が慣れないと其処にいる生き物がどんな形をしているのか悟 ることが出来ない。奥の方で犬が吠えて、それに呼応するように水のにおいが強くなった気がし た。不意に思い出す、真っ赤な鳥居と石畳。金魚と祭りの記憶は繋がっている。 「銀時、早く来い」 さっきまで自分の前に居たはずの桂は、気紛れに水槽を眺めているうちに視界から消えていた。 慌てて、追いつく。 「んだよ、お前の買い物だろうが」 昨今では珍しくなってしまったその金魚屋は、さすがに屋号に金魚と入れているだけあって本 当に金魚だけを売っていた。金魚などという生き物は夜店の金魚すくいくらいでしかお目にかか ったことは無いから、貧弱で小さな生き物という印象しかない。だから、これほどまでにたくさ んの種類と、名前を持っているということは知らなかった。水槽ごとに分けられた、赤と、黒と、 白と、金。正直どれでも同じではないか、とも思う。けれども、本当はどれもが違う。俺が知ら ないだけで。 「こいつ、昨日までは元気だったよな」 言いながら、桂は調整中と書かれた札の貼ってある水槽のガラスを指先でたどる。脇から覗き 込んでみると、そこには赤い斑点を持つ白い金魚がひっくり返ったまま浮いたり沈んだりを繰り 返していた。 「病気かもしれないな」 「何、お前詳しいの」 いや、と小さく呟いたきり桂は俺の質問には答えずに、不意に水槽の前を離れた。 「誰かが触ったのかもしれないな。少しでも傷がついたり、鱗が剥がれたりした魚は、水の中に 戻してももう、生きられない」 エアーポンプが絶え間なく水の中に酸素を送り出している。俺の耳の奥でも、ざらざらと水の 流れる音がしている。 「金魚というのは、よくわからない生き物だ。温度にも水質にも敏感で、少しの傷で容易く病気 になるのに、適当に世話をしているのに驚くほど成長したり、人間と同じくらい生きてみたり、 川に放すと鯉くらいの大きさになるものも居る。まったく、どうなっているのだろうな」 「まあ、元はフナだしな」 適当に打ったはずの相槌が、思いのほか甘やかに響いて一人で慌てる。桂はそれに気付かない のか、別の水槽を見に行ってしまった。俺は、俺が桂に対して感じている感情の意味を知らない。 甘やかな幻想のみではない、熱の、渦。最初から何も考えないことで結論から逃げている。考え ないことで全てが消えてなくなるわけではないことを、とうに思い知っているはずなのに、また 同じことを繰り返している。歩く度にすいと目の前を過ぎる黒髪が、尾びれのようだ。彼も、傷 ついたら死んでしまうのだろうか。そんな繊細な人間ではないことは知っているはずなのに、妙 なことで臆病になっている。その、原因は。 「おい銀時、お前も真剣に選べ」 「知らねぇよ、お前、さっさと決めろよ。明日はもう付き合わねぇぞ」 お前も、と振り向いて歩き始める桂についていきながら、昔、お前も、と言って皆で選んだ道 が、間違いではなかったものの正解ではなかったことを思い返した。 子供の頃、夜店で買った金魚はよく、翌朝になると白い腹を水面に見せて浮かんでいた。悪友で あり親友である男は、普段がさつで生き物を扱うのにまったく向いていないように見えるのだが、 そういった貧弱で繊細な生き物だけはなぜか上手く育ててみせた。それしかとりえの無い奴だっ たが、俺は、今になってそいつがほんの少しだけ羨ましかった。 できるなら、おれにも、だれかを、なにかを、いきながらえさせるてがほしかった。 もう、おそすぎるのだけど。 頼むから、お前は消えたりしないでくれ。頼むから、壊れたりしないでくれ。 俺を、置いていかないでくれ。 もう多分、どうしていいのか分からない。 「銀時、銀時!こいつにする」 平和な声で桂が呼ぶ。 平和な視線で、俺を見る。 「おい天パ、頭の中身までくるくるパーか」 「お前、ヅラのくせに言っちゃあならねぇことを!」 その目の奥に、苛烈な炎を秘めたまま。 桂は、夜店で買った金魚をどうしたのだったか。塾の窓際に置いた水槽に、赤が元気に泳いで いた記憶は無い。だけれど。今の、こいつにはきっと、救えるだけの両手がある。 「金魚は胃がないから、餌はこまめにやるんだ。放っておくと色が悪くなるから、色揚げ作用の ある餌がいい」 「あそう、じゃあ買っとけよ、2本くらい」 「それから、水を替えるときには、これを入れる」 「あそう、じゃあ買っとけよ、2本くらい」 「……おい銀時、こいつはお前が持って帰って飼うんだぞ」 「はぁ?お前、家には凶悪な生物が2匹もいること知ってんだろ」 だから、多分、救われたいのは俺だ。 だけど多分、もう手遅れだ。俺は方法を間違えてしまった。あのときなら、まだ、間に合った のだろうか。大切なものを大切にする、そんな簡単なことを、あの時ちゃんと学んでおけばよか った。俺が間違えた鳥居の前に立っていた、繊細そうな少年の面影は、もはやどこにもなかった。 060731→060814up 絵を頂いたお礼にシタヤマさんに捧げました。 |