五叉路



  偶々、本当に偶々だった。偶々その日は非番で、寝るのに飽きてふらふらと街をあてもなく
歩き回っていた。信号の色が停止に変わったので足を止めた。車の量は多いが人影は少なく、
みな一様に黙って立ち尽くしている。複雑な構造の交差点をものすごい勢いで車が走り抜けて
ゆく中ふと、横断歩道の向こう側に目をやると同じような位置に銀時がいて驚いた。銀時はま
だこちらに気づいていないようで片腕を懐に入れたままいつものようなぼんやりとした顔で車
両用の信号を見ていた。苛苛と舌打ちをして目線を前へ向ける。ヘッドライトがまぶしいのか
眉間に皺がよっていた。目が合った。あまり表情には出なかったはずだが、ひどく驚いた。本
当に、すごく。とっさに、目を逸らす。
 何をやってるんだ、こんなところで。
 万事屋とは全く無関係の方向じゃないか。自分のことは棚に上げてそんなことを思った。
 ごお、と音がして巨大なトラックが走り抜けてゆく。日はとっくに暮れていて、不意にああ
暗いなと思った。暗いから、気づかれなかったのかと安堵に似た気持ちが涌いてくる。それが、
どうしてそんな形をしているかよくわからなかった。気づかれなくて安心したのか、それとも。
そのもう一つの可能性についてはあまり考えたくなかった。
 もう一度視線を前へ戻すとまた目が合った。今度はあっちも気づいたらしく一瞬驚いた表情
をした後笑いかけようと手を上げた。
 少し、後退る。大きな道路だった。15メートルほど離れていて、暗いのに、それが見えた
のか怪訝な顔をした。信号はまだ変わらない。もう1歩下がる。銀時は敏感に反応して苛苛と
まだ停止の色のままの信号を見上げた。ああ、逃げると思っているのか。どこか他人事のよう
に思う。そのまま放っておけば車の間を縫ってこちらに渡ってきそうな顔をしていた。ざわつ
く心は必死にそこに足を縫いとめようとしていたが、頭は冷静に思考をしていた。
 危ないから、やめてくれ。いや、そうではない。そうではなくて、怖いから。怖いからそれ
以上こっちにこないでくれ。それ以上俺の中に踏み込まないでくれ。俺の中に何か跡を残すの
をやめてくれ。別の方向の信号の色が変わって、さっきとは違う流れが交差点にできた。俺と
銀時をさえぎる道路に車の流れはなかった。バスが曲がって一瞬視界をさえぎられる。
 とっさに、そのままもと来た方向へ体を反転させて走り出す。向こうで何か叫んだようだが
車の騒音にかき消されて何も聞こえなかった。すぐに、足が止まる。さっきの場所から5,6
メートルくらいしか変わらない。なのに、ひどく息が上がっていた。掌には薄く汗がにじんで
いる。そのままそこで立ち尽くしていると背後で音もなく信号が変わって、止まっていた人の
流れが再開する。
 ああ、お前が。お前が俺を好きでなければよかったのに。そうでなければ、俺が犬とか猫と
か、ただ慈しまれるだけの存在であればよかった。残念ながら俺は人間だから、だから大切な
存在などこれ以上増やしたくはなかったのに。
「ひじかた」
 はっとして振り向くと銀時がそこにいた。怒ったような悲しいような見たこともない表情を
して立っていた。それを見て何か表情を作ろうとしたが失敗して、どんな顔をしたらいいのか
分からずに無表情で見返した。腕を伸ばされて二の腕をつかまれそうになって、ああつかまっ
たと思った。捕まったということは逃げるつもりであったのにということで、でもここに止ま
っていればすぐに追いつかれてしまうことは分かりきっていた。では何でと考えてみても俺は
俺が何でこんなところにいるのかよく分からなかった。
「何で逃げんの」
 二の腕を強くつかまれた。痛い。と思うが痛いという言葉は音にならなかった。必死な顔を
していると思った。必死な顔と声だった。
 何で。何でだろう。俺だってわからない。不意に泣きたいような気分にさせられた。
「逃げようとはしてねぇよ。逃げるつもりだったら、こんなところで止まるわけねぇだろ」
 銀時は腕をつかむ手にいっそう力を込めた。絶対に振りほどけないように逃げられないよう
に俺をその場に繋ぎとめていた。否定したのに傷つけてしまったのかもしれない。
 ああ、俺は逃げたいんじゃなかったんだ。銀時は、俺に俺の在り方を否定させた初めての人
間だった。どうしてもなくせない人間になってしまった。なくせないのに逃げるなんてありえ
ない。もし俺が銀時から離れるときが来るとしたら、それはお前から俺の手を離すときなのだ。
そのときになったら俺はお前の望むとおり離れてやるから、どうかそのときのためにあまり俺
に優しくしないでくれ。そう考えて、どうにかそれを伝えようと思ったけれど結局俯いたまま、
何も言えずにただ車の音を聞いていた。


〜060702