暗闇で咲け
 



 俺があの人のネコだったという話は業界ではかなり有名らしくもうそんな年でもないの に繰り返される稚児にならないかという下らない話を丁重に断った。そんなことは当然の 成り行きだというのに話のわからない馬鹿なじじいどもは実力行使に踏み切っては俺に返 り討ちにされているのだがいっこうに学習する気配はなく例の如く、この週何度目かもわ からないほどの戦闘(喧嘩、ではなくそれはまさに)をした。おかげさまでこの1年で骨 に3度ひびが入って3度ともしっかり治っている。包帯を増やして事務所に行くたびに醜 く綺麗に歪んだ顔をしてみせるガキだがしっかり女である女もニヤニヤ興味に充ち満ちた 笑いをしてみせるあの化け物も嫌で嫌で仕方がないのに元気に今日も生きている。俺健康。 俺超健康。万歳だ。仕事、を、始めた頃に比べて切り傷擦り傷の数は減っているがそれに 比べて現在ハイペースに骨折しているのは俺が、何かの要因で力のセーブが効かないから でそれは、おそらくいやきっと確実に、その理由を考えたとたん、それほど長時間動いた 覚えはないのに死にそうなほど心臓があつくなってしまったことに驚きながらあの人が死 んでから初めて涙を流した。泣くという行為は自分を哀れむ行為でしかなく俺は、いつま でたってもガキじみた思考回路に由来する意地によってオヤジが死んだときも涙を流しは しなかった。のに。今このほほを伝う水は何だ。この生暖かいものは何だ。反射のみでは なく感情によって涙を流す動物は人間だけだという、話を頭の片隅で思い出しながら俺は、 死んでしまったあの人を思って涙を流す。俺の境遇を哀れんでいるわけではなくただ純粋 に、ああ。俺も人間だったのだ。犬だ獣だとさんざさげずまれその名に慣れ親しんで、そ れこそが俺だと思い続けて生きてきたのにいまになってこれだ。愛していた。俺は、愛し ていた!それは少なからず俺があの人に出会って変わってしまったという証明でありあの 人が遺した傷跡でもある。傷ならばこのまま治らず跡を残し永遠にとどまればいい。記憶 は脆く儚く消えゆく運命にあることを、俺はオヤジが死んだときに知ってしまった。だか ら永久に痛み苦しみ続けてあの人を忘れないように、一握の砂粒ほども零さないほど深く 深く残ればいい。醜くゆがんでケロイドのように形を変えてでも、それを見るたびにすべ てを鮮やかに思い出せるように。この傷もこの骨も全て全て全て全て醜いまま、流れる血 が止まっても残るように歪んで塞がってしまえ。ああしかし、俺は一人でも泣けるのだ。 甘えではなく泣けるのだ。しかし俺も人間なのだという事実に安心している俺に嫌悪感を 覚えているという事実。あの人を思って涙を流す俺に嫌悪しながら俺は、排気口の並ぶ溝 くさい暗がりで、いつまでも止まらない水を零し続けた。