林檎には嘘をあげる



	  
 長閑。長閑だ。こなした仕事はいつもどおり、私腹を肥やす先生方のうち目障りな動き
を始めた数名を破滅に追い込む長閑とはいえない内容ではあったが、いつもどおり、無能
な上司が無邪気にゲームを楽しむだけの余裕はあった。いい加減、さすがに、攻略本を買
うくらいの知恵はつけてほしいと思うのだけれど、その無能のデメリットよりもメリット
のほうが今のところ大きいのだから進言は控えているという言い訳で胸中の澱のような苛
立ちをこらえた。あまり考えて動かれるような人間になってもらっても正直困るのだ。や
はり、何の疑問も持たせずに矢面に立たせるにはちょっと足りないくらいがちょうど良い。
ただ、あまりに空気が読めないところは直してほしいと思わないでもないが。次から次へ
と舞い込む問題に一通りきりをつけて、数時間ぶりに足を踏み入れた会議室でユキは眠っ
ていた。さほど大きくない備え付けのパイプ椅子を2つ並べて、その上で決して小さくな
い体を折りたたんで眠っていた。彼に用はないのだが休んでいいと言った覚えもなく、衝
動的に揺り起こそうとして、しかしその手をユキの肩にかけたところで、やめた。何とな
く、そうしなくてはならないような気分にさせられる光景だった。ユキは緑色のファーコ
ートは着たままで、身長は平均かそれ以上あるはずなのに、薄い体を小さく丸めて器用に
そこに収まっている。窮屈そうに見えるのにそこに見えるのは全く安らかな寝顔だ。見慣
れたはずのその緑色がやけに不吉な色のように感じられるのは、ユキの姿に拒絶のような
ものが浮かんでいるせいだろうか。ユキは、胎児のような格好で、胎児のように眠ってい
た。体を丸めて眠る人間は幼児性があるという話は、何で読んだか忘れるくらい周知過ぎ
るほど周知の知識であったが、ユキのその眠り方は、幼児性というよりは何かから必死に
体を守ろうとしているようにも見える。守らなくてはならないのは、理不尽な寒さからか、
暴力からか、それとも。私はどこかで間違えてしまったのだろうか。こんな風に小さくな
って守らなければならないほど恐ろしいものを、彼の中に植えつけてしまったのだろうか。
彼の中に痛々しいほどの幼児性を残したのは、私だろうか。そう。疑問に思うまでもなく
私だ。幼い彼に、必要なだけの愛情を与える前に、血縁に由来した静かな拒絶で、ずっと
彼を傷つけ続けてきたのだと思う。生きるため、などというものはただの方便で、本当は
ずっと彼に嫉妬していた。私が受けていた愛情を一身に受けだした彼を、支配することに
よって腹を満たした。退路を塞いで真綿で首を絞めるようにじわじわと、やがて息もでき
なくなるくらいに。明らかに、それが原因であろうことなんてわかっている。わかってい
るが、今更どうしようもない。どうにかしようにも方法はわからないし、特にどうにかし
ようとも思わない。ユキの世界はどうしようもなく閉じている。ユキの世界は私が閉じた。
丁寧で、周到で、時間を掛けてゆっくりと、確実に。私の愚かさの結実であるユキを、盲
目に私を信じる彼を、どうしようもなく愛しているのだから。
「あ……にき」
「ユキ、起きたね」
「あ、悪……寝てた……いや、寝て、ました。すみません」
「いいよ」
「え?」
「いいよ、そのままで。どうせ今日の分は上がりだ」
「何か、兄貴が優しいと気持ち悪い」
「酷いなそれは」
 私の苦笑にユキは、へらりと笑った。やはり、その顔に痛ましいほどの孤独が見えるの
は気のせいか。短く刈られた髪は触れたくなるような優しい色をしている。ぼんやりと薄
明るい会議室の中でその色だけがはっきりと浮かび上がって見えた。気まぐれで頭に触れ
た手に、一瞬怯えたような震えが走ったのは、気のせいではない。