蝕紅 お前これ、どうしたんだ。 土方は机の上に雑多に置かれた数々の品の中から赤いマニキュアのビンを指して 言った。 ひどく感情に乏しい声で俺は彼が何を考えているか一瞬ではわからなかった。 コンビニで売られているそれは香水ビンのようなかわいらしいつくりをしていて 黒いつたの文様が描かれていた。封は既に開けられて半分ほどに減っている。秋ご ろにコンビに限定で発売されていたそれは(新作のチョコレートの横に置かれてい たからよく覚えているのだ)赤と言うより深いワインの色をしていた。それはいつ かの依頼人の忘れ物だった。依頼人は若い女だった。香水の臭いがきつくてしかも 依頼を告げるなりそのマニキュアを塗りだしたものだからそのとき財布事情もそう 悪くなかったこともあって丁重にお断り申し上げたのだけど。それきり、キレて飛 び出した女は再び訪れることもなくその小瓶だけがここに残っている。 一瞬のうちにそれだけを思い浮かべてふと、疑問に思う。土方は普段俺の持ち物 にあまり関心を払わない。というか生きる糧である甘味の趣向をのぞいて全くの無 関心もいいところだった。それなのに他にもアヒル隊長だとかビー玉だとか汚れた ゴム人形だとかその他の訳の分からない物の中からそれだけに注意を向けている。 確かにそのゴミにも思えるオブジェの数々の中にあってそれだけが女物で異彩を放 ってはいるのだけど。 女。 土方はそこに引っかかったのだろうか。それともただ単にその赤に惹かれたのだ ろうか。 前者であったなら、と考えるだけで気分が上昇する。 「ああ、それ。西郷んとこでバイトしてたときに使ったんだよ。まだあったんだ」 お妙の忘れ物だとか神楽がもらったんだとか他にもいろいろ言いようがあったと 後になって気づく。彼も知っていることなのにここに女がいると思われたくなかっ たのかもしれない。ちょっと言い訳じみたかと思って土方を見るがふぅんと言った きり関心をなくしたようで新しい煙草に火をつけて窓際に座った。 土方は異様なほど淡白だった。仕事のせいもあるだろうがイベントごとにも無関 心だし俺の誕生日(だと勝手に決めている日)にもそれどころか土方自身の誕生日さ え忘れる始末だ。俺から切り出さない限りキスもセックスもしないし自分から触れ てくることもない。もうお互いがっつくような歳ではないが寂しくもあった。 お前は俺を必要としないのだろうか。 そばにいるだけじゃ不安なんだ。それを、お前は分かってくれるだろうか。 机の上の小瓶を眺めながら一つの考えが頭をよぎる。彼はそれを嫌がるだろうか。 それでもよかった。それならそれで別にかまわなかった。でも、やっぱり。 「土方」 小瓶を手にとって土方に近づく。土方はちょっと目線を俺に移しただけでまた窓 の外を眺めた。少し怒っているのだろうか。いや多分彼は何も感じてはいないのだ。 彼の感情は一瞬でその後には何も残らない。ある意味では好都合であったけど彼の 中に何も残せないのではないかという不安の材料でもあった。そっと土方の手を触 る。形のいい爪の人差し指にだけ何か刃物でつけた傷があった。もう春だというの に土方の手は季節を無視した温度をしていた。俺のしぐさを無感動に享受する彼は やっぱりいつもの彼だった。 「これ、塗ってよ」 「は?」 瞬間、それまで無表情だった土方の顔が嫌そうにゆがめられる。今日初めて見る 彼の人間らしい表情だった。 「女じゃあるまいし、なんで俺が」 「俺はお前に塗って欲しいんだよ」 土方は怪訝そうな顔をして俺にとられた自分の手と机の上のマニキュアを交互に 見て、嫌だ冗談じゃねぇとやっぱり無感動に言った。それもそうだ。俺だってマニ キュア塗った女の手が見たいわけじゃない。彼を女の代わりにするつもりもない。 「じゃあさ、この指」 土方の左の薬指を指して言う。彼はわかってくれるだろうか。 「この指だけでいいから」 しばらくして俺のいう意味が分かったのか一瞬赤くなってそれからすぐ嫌そうな 顔をした。その反応を見てただ嫌がられるだけじゃへこんだだろうなと思う。 「冗談じゃねぇ」 それでも土方は嫌だと言った。でも俺は土方が押しに弱いことを知っていた。い つだってそうだ、なだめて、すかして、しつこいくらいそうしていると結局は手の 中に落ちてきてくれるのだ。誰にでもそうなのかと思ったがそうではないことも知 っていた。 「じゃあさ、お前明日も非番だろ。その二日間だけでいいからこの指、俺に頂戴」 なあ、いいだろ。ちょっと気障かと思うが左手を取って甲に口づけて笑む。土方 は完全に諦めたような溜息をついて勝手にしろと言ってくれた。 「そのかわり、明後日には落とすからな。それと、塗るならお前がやれ」 やりかたわかんねぇから。ぞくぞくと背中を歓喜が走る。こんなものが何かの証 になるなどとは思っていない。二日後には消えゆく運命だ。それでも、土方が提案 を受け入れてくれたこと自体が嬉しくてしょうがなかった。土方は左手を完全に投 げ出して俺に預けるといつの間にか終わっていた煙草を灰皿に押し付けてもう一本 取り出す。片手だけで器用にそれだけをこなすと今度は俺にとられたままの左手を 見つめた。その表情はまた元の何も感じていない顔に戻っていた。でも今の俺には その事実だけでよかった。 マニキュアの蓋を開けて小さな刷毛ではみ出さないように慎重に塗ってゆく。自 分の爪に色をつけるときよりもずっと緊張した。二人ともその間は何もしゃべらな かった。何か神聖な儀式をしているようだと思った。 ある宗教では左手の薬指は心臓に直結しているのだと言う。俺たちはその宗教の 信者ではないが、もし本当にそうだとしたらこの赤はその血が染み出た赤だと思っ た。俺と土方の思いが染み出して染まった色だと思った。綺麗なワインレッドは柔 らかな光の中でつやつやと輝いていた。 060529 |