僕らは緩やかに死んでゆく



 頭が痛ェ。頭の奥のほうでずきずきともつかない鈍い痛みが2時間ほど前からだがずっ
とある。延々とくだらない番宣の番宣をしているテレビを眺めながら溜息をついた。しと
しとと降り続く雨にやられたのだろう。もしかしたら風邪の前兆かもしれない。
 だとしたら厄介で何より厄介なのはさっさと帰って寝たほうがいいに決まっているのに
なぜか帰る気が起きないことだ。こういう日は結局だらだら居ついてしまうから始末が悪
い。早く帰って治さなければ仕事に支障が出るのに。
 頭が痛ェ。声に出せばいい加減決意も出来るかと声に出して呟いてみる。鈍痛は声の響
きに合わせて痛みを与えた。声に出してはみたものの意図とは逆に甘えたような響きが出
てしまったと思う。何をやっているんだ俺は帰りたいのに。
 何が原因だかすぐに分かる場所にあるのだけど思考が分離していく瞬間を目の当たりに
した気がした。目の前の灰皿は半分ほどが死骸で埋まっている。普段は吸わないメンソー
ルの臭いが鼻につく。たまたま自販で売り切れだった。コンビニで買うのは面倒だった。
「何、頭いたいの」
「ああ。帰って寝る」
 それにしても頭が痛い。さっきよりもひどくなっている気がする。外は雨だ。さっさと
帰りたいのに足が根を張ったように動かない。少し熱もあるかもしれない。自覚するごと
に症状が悪化するような気がしてそこで思考をとめる。何を考えていたんだっけ。そうだ
帰らなければ。
 銀時の家に来たときにはそれが俺の意思でここに来たときでも銀時に引きずられてきた
ときでもどうにかしてその場から逃げ出そうと試みる妙な癖がついていた。しかもそれを
ある意味において非常に無意味だと自覚していることを俺はそれをどうしようもなく忌々
しく思っていて一つ舌打ちをしてはそれが頭に響いて顔をしかめた。
 どうにかして重い腰を上げて外したままだった刀を腰に挿して机に置いたままだった煙
草を回収する。傘は持っていた。その間銀時は引き出しの中をごそごそ探っていた。別に
歩いて帰る必要もないと思いついて山崎あたりを呼び出そうと携帯を手に取った。ここに
あのかしましい人間を呼ばなくてはならないことに気が重い。やっぱりタクシーにしよう
とメモリーに入っている番号を呼び出した。
 ことんと何かが頭に当たって落ちた。アスピリン。もう今ではあまり見かけなくなった
鎮痛剤だった。目線を上げて引き出しのほうを見ると銀時が何故か不機嫌な顔で俺を見て
いるのが見えた。馬鹿だなお前、俺は多分風邪をひいているから欲しいのは鎮痛剤じゃな
いのに。なんで俺が帰りたいのか分かっているだろうに彼は意図的に気づかないふりをし
ていると思った。気づかないふりをしていても俺にばれてるんだから意味はないのに。お
互いに馬鹿げた芝居をしていた。それを無視して帰ろうとすると銀時は悲痛にも聞こえる
声で俺を呼び止めた。振り返るとそれを裏切らない顔で俺を見ていた。俺は頭が痛くて早
く帰りたかった。強く何かを求める目だと思った。
 彼は俺に必死だった。俺はその必死さが怖かった。俺はその必死さに溺れそうな俺が何
より一番怖かった。
「帰りてぇんだけど」
「なんで」
「頭痛ェから」
「そこに頭痛薬あるじゃん」
「風邪ひいたかもしれねぇし」
「風邪薬もある」
「眠いし」
「なあ、お前なんでそんな帰ろうとすんの。いつもいつもさ。この前は眠い、その前は煙
草が切れた、今度は頭痛かよ。今日だってメンソ吸っちゃってさ。コンビニなら売ってん
だろいつもの。そんだけ急いで来てくれたってことだろ」
 違う。ただ面倒だったんだ。だけどその言葉は口から出て行かなかった。銀時は知らな
い間にこっちに近づいていて俺の腕をつかんだ。頭が痛いと思った。早く帰らなければと
思った。
「お前のいつも吸ってる煙草、ここに置いてんだよ」
「離せよ。帰る」
「帰る帰るってお前、」
 力が緩んだ隙に振り払って玄関に向かう。そういえばライターを忘れたがどうせ100
円だしまた買えばいい。連絡してないから山崎もタクシーも来ていない。どこかで捕まえ
ればいい。そこまで弱ってるわけではないし雨の中数分歩く分には支障はない。
「土方」
 どたどたとうるさい足音がする。もういい。もういい。あれだけ冷たくしたのだからも
う分かってくれ。俺を放っておいてくれ。
 ブーツを履く前に腕をつかまれて気づけば後ろからしがみつくように抱きつかれていた。
力が強すぎて少し痛かった。ああ多分この男は寂しいんだと急に思った。
「土方」
「……」
「土方」
「何だよ」
「なんで帰ろうとすんの」
「なんでお前はそんなに必死なんだよ」
 必死だよ。震えてはいなかったが首筋にうずめられた声が熱いと思った。馬鹿みたいに
俺の名前を繰り返し呼んでいた。
 子供のような仕草に苦笑する。ああ、だめだ。だから帰りたいのに。
「何にもしねぇから」
「馬鹿じゃねぇの。だから、頭痛ェって言ってんだろ」
 何かされるのが怖かったわけじゃないが何かされるのが怖かった。何もしないでいても
お前といるだけで駄目になるから嫌だった。お前分かってんの。俺といたって何かを得る
わけじゃなくて何か大事なものを失うばかりだってのに。
「何だよお前、何なんだよ。どうしたら帰らないで居てくれんの。お前の要る物全部ここ
にあるんじゃん。何が不満なわけ。何でも言えよ。何でもしてやるから」
 銀時は腕の力を強めた。背中が温かい。雨の音に混じって銀時の心音さえ聞こえてきそ
うだった。ああもう駄目だ。とっくに駄目になってしまった。もう全てが遅かった。子供
のような仕草をして、俺たちはとっくに駄目なまま大人になってしまった。
「じゃあ、キスしろ」
 振り向いて顔を見ると唇が降ってきて反射的に目を閉じた。目を閉じる一瞬前に見た銀
時は泣きそうな顔をしていた。頭痛はいつの間にか消えていた。


060529