歪む心臓



 青い空は必要以上に高く澄み渡り、遠くに見える入道雲はずんずん大きくなりながら
こちらに近づいているのにそよ風一つ吹かない。少しでも涼をとろうと風鈴を吊るして
はみたものの涼しげなのはその透けるガラスの青だけで少しも鳴きやしない。悪乗りし
て隊服をロッカー仕様にしてみたが鏡を見た瞬間さすがに恥ずかしくなって(副長の暴
力に屈したわけではない、決して)仕方なしにもとの服を着ている。やっぱりこの方が
しっくり来る。真夏に黒なんて世間に反抗しているようでいいじゃないか、なんて粋が
ってみても耐えられないものというのは山ほどあって、しかもそういうことに限って自
力で対処するには限度のあるものだったりする。天候だとか気温だとかもそのうちでそ
こにテロだの何だのが重なるものだから隊士の疲労もピークに達して誰もが死んだよう
な目をしていた。なんて他人事のような思考をしていても暑いものは暑い。暑いったら
暑い。それもこれもお上が費用をケチって文明の利器を取り付けるだけの余裕を作らせ
ないからで、無駄とは知っていても提出した冷暖房完備の予算案は3年目にしてまたも
廃案となったばかりであった。仕方がないからロートルなからくりがフル稼働だ。あま
りおおっぴらに文句を言える立場ではないがこれだけ暑いのだから愚痴の一つや二つや
三つや四つくらい許して欲しい。庭の木陰では沖田隊長がこのくそ暑いのにアイマスク
をつけて昼寝と決め込んでいる。全くいい気なものだ。とりあえずひと段落したとはい
え頭脳労働組はまだまだ書類と格闘しなければならないというのに。まあ沖田さんなら
仕方ない。言ったところで攻撃されるだけで何一つ易はないのだから。さぼりの誘惑か
ら目を逸らして頭を仕事モードに切り替えようとしていると辺りの様子がおかしいこと
に気がついた。門の辺りが騒がしい。何人か隊士でないものが出入りしているようだ。
また厄介ごとでなければいいのだけれど。
「やまざきー」
 玄関のほうから局長が俺を呼ぶ声が聞こえる。元気だ。その声だけで体感温度が増す
のは多分、気のせいではないと思う。切羽詰った声ではないからきっと、また何か問題
が舞い込んできたわけではないようだ。まああの人だからあまりあてにはできないんだ
けど。
 はいはいと返事だけは景気よく駆けつけると、何やら四角い大きなものが運び込まれ
ている最中だった。玄関には小さめのトラックが横付けにしてある。石畳には陽炎が見
えた。局長はにっかり笑ってトラックの持ち主らしい人たちと話しているがありえない
暑さと蝉時雨に何をしゃべっているかまでは頭に入ってこなかった。
「山崎、みんなを呼んで来い」
「はぁ」
「松平のとっつぁんから氷の差し入れだ。クーラーの予算が通らなかったわびだとさ」
「松平様が」
「ああ。なかなかどうしてあの人も男気のある人だよ」
 台所に運び込まれたあと、巨大な氷はいくつかのブロック状に切り分けられていた。
透き通る塊は見るからに涼しげだ。トラックはどうやら氷店のものらしい。氷を切り分
ける氷店の男の髪は汗でぺちゃんこになっていた。局長はまだ玄関で店主らしい男と話
している。何か書状を受け取ったらしく、ちらりと盗み見たそれには松平様の名前で詫
びと仕事を励む旨の言葉があの人らしい乱暴な言葉と筆遣いで書かれていた。
「局長」
「何だ」
「後で桶に入れていくつか部屋に持って行きましょう。冷房のない奴らは喜びますよ」
「ああ、そうだな。その前にかき氷にして食おう。せっかくこれだけあるんだ。まずは
楽しまなきゃ損だろ。シロップはもう買いに行かせたから」
 局長はやっぱりにかっと笑った。夏の太陽のような人だ。それでもその顔には疲労が
にじみ出て少し影ができていた。
「かき氷機なんてありましたっけ」
「あるぞ。ついでに持ってきてもらったからな」
「じゃあ俺みんなを呼んできますね」
「シロップは何がいいかな。まずは最初はメロンか。ブルーハワイも捨てがたいがなぁ」
 そのまま誰も聞いてないのにかき氷論を熱く語り始める局長は多分俺の話なんて聞い
ていない。それにきっとかき氷をめぐる阿鼻叫喚絵図やそれを作るのは多分俺なんだろ
うななんてことも考えていないだろう。ただそれも局長らしいといえばらしい。そうい
う大味な優しさに俺たちは惚れたんだ。
 それから台所の熱気に負けたのか一人で宙に向かってしゃべりながら食堂に向かって
いく。あれは相当やばいんじゃなかろうか。最後の氷を運び終わって氷屋の男は玄関か
ら出て行った。しばらくしてトラックが発車する音がする。局長が向こうにいって急に
周りの温度が下がったような気がする。それは氷のせいか、トラックのせいか、それと
も局長のせいか。
 俺は俺で隊士を呼び集めるために屯所内を駆け回る。暑い。次から次へと流れる汗は
いくらぬぐってもきりがない。氷の欠片を舌に乗せたときの清涼感を思い描いていらつ
きをこらえた。ちらりと覘き見た数少ない冷房の効く食堂では高校野球が流れていた。
数人の隊士がそれをかじりつくように見ている。何が楽しいんだか俺にはよくわからな
い。途中で挟まった短いニュースでは最高気温が34度を記録したと言っていて暑さも
3割増しだ。午後からの天気を伝えるキャスターも心なしか疲れているように見えた。
 最後に副長の部屋へ行くと、光を遮るためか暑いだろうに障子は全て締め切られてい
た。副長室にはクーラーがない。局長の部屋にはあるのに副長が人工的な冷気は苦手だ
からといって固辞したのだ。たしかにそれもあったのだろうが本当はそれよりも大部屋
につけたほうが隊士の士気が上がると踏んでのことだと想像する。どこまでも真撰組本
位の人だから、本当に副長らしい。その代わりに副長室には一つだけ古びた扇風機が一
つ提供されていた。今も障子越しにそいつがフル稼働している音が聞こえる。随分古い
ものだから最大風量にすると音がでかいのだ。
 そっと障子を開ける。むっとする煙草の臭いに顔をしかめながら中に入ると扇風機は
やっぱり最大風量に設定されていて室内の空気をかき回していた。副長は、扇風機の前
で横になっていた。
「副長?」
 クーラーのないところを閉めきっているのだから涼しいはずもないのだが、てっきり
仕事をしているものと思っていたのに扇風機の前に寝転がってぴくりとも動かない。ど
うりで愚痴を言っていても殴られないし沖田さんも気持ちよく昼寝しているはずだ。当
の鬼副長がこの様子なのだから。
「副長、」
 食堂に来てくださいと言おうとして口をつぐむ。俺が部屋に入っても気配を感じ取っ
て起き上がることもしない。刀は常に手元にあるのにその白い手が伸ばされることもな
かった。おかしいと思って近づくと扇風機の音に混ざってかすかな寝息が聞こえた。癖
なのか、右手は甲を目に押し付けるようにしていて、左手はゆるく開けられたベストの
上、丁度胸のあたりに置かれていた。捲り上げられた腕には鳥肌が立っている。きっと
直接風が当たって寒いのだろう。副長はもともとそんなに体温の高いほうではないから
なおさらだ。
 換気のために障子を少し開けて、扇風機の目盛を少し下げて顔を覗き込むと、目の下
にははっきりとクマが浮かび上がっていた。俺や局長やさっき食堂にいた隊士たちにも
程度の差こそあれ同じものができている。それに加えて心なしか顔色も悪いようだ。こ
こ数日、副長は殆ど不眠不休で働いているのだから仕方がない。俺たちがもっとしっか
りしていればここまで副長が疲弊することもないのだろうけど。あんな強い風に当たっ
て風邪でもひかないかと心配になった。胸に置かれたままの手に触ると生きてるのか疑
わしいほど冷たい。驚いて首もとに手を当てると幾分体温は低いがしっとりと汗ばんで
いて生きている人間だと知らせた。とくとくと頚動脈が脈打って指先に振動が伝わって
くる。あまりの暑さにおかしくなった頭は胸の奥からグシャグシャになったソレを引き
ずり出す。
 やめろ、やめてくれ。今更俺の目の前に突きつけるな。
 命令しても信号はどこかで止まってしまって正確に脳に伝わらない。思わずすやすや
と安らかな寝息をたてる寝顔と薄く開いたその唇を凝視してしまう。唇は不摂生がたた
って荒れているが紅を引いたように紅く色づいていた。そっと顔を近づけると最近忙し
くて切る暇のなかった伸び放題の髪が副長の顔に当たりそうで、でも幸か不幸か触れず
にすんでほっとしたのは確かだった。

 そのまま近づけばどうなるかなんて考えるより明らかだ。

 遠くでばたばたと誰かが暴れる音と野太い歓声が聞こえる。はっとして体を離して俺
と副長と、開け放したままの障子の向こうを見渡した。微かに球音と応援団の演奏が聞
こえて食堂でテレビを観ていた連中のことを思い出した。誰も来なくてよかった。知ら
ず詰めていた息を吐き出すと自分でも分かるくらい鼓動が早く打っていてやたらと顔と
目の奥が熱かった。
 何してんだ、俺。俺は今、何をしようとした。
「あー……畜生」
 慌てて立ち上がり、自分を落ち着けるために温い空気を肺一杯に吸い込むが副長の煙
草の臭いが邪魔をして全然駄目だった。かえって嗚咽となって漏れしてまいそうだった。
別に何かに腹を立てていたわけではない。そう、強いて言うなら俺自身のふがいなさだ。
グシャグシャになるまで押し殺していたはずの想いは気づけば反動で膨れ上がっていた。
こんな醜い、どうにもならない想いなんて抱えていたっていいことなんて少しもありや
しないのに。
 その強さが思い知らされただけだ。ただ、それだけのこと。
 そのまま副長の方を見ないように部屋から出ようとして、背後で動く気配がした。
「山崎……?」
「副長、」
「何か用か」
「食堂にいらしてください。松平様から氷が届いてますよ。局長の提案でこれからかき
氷をするそうです」
「そうか」
 副長は体を起こして頭を二度三度振ると、強く圧迫していたせいで視界がはっきりし
ないのか何度も瞬きを繰り返している。そのむずがる子供のような仕草に心臓がずきり
と痛む。
「マヨネーズも用意しますよ」
「馬ァ鹿、いくら俺でもそこまで悪食じゃねぇよ」
 そう言って、少し疲れたようにぼんやりと笑う。肺と目の奥が熱い。どうしようもな
く苦しい。視界がぼやけているせいかそれに気づかれないことに安堵する。俺は後で行
くからと追い出された廊下は直射日光に焼かれて燃えそうなくらいに熱かった。押さえ
つけすぎて既に黒く変色を始めた心臓が腐ってしまいそうだった。




タイトルはムックの日だけに(笑)
060609