窓から見える一面に茂ったつめ草がみどりのにおいを漂わせている。適度な湿度の風が眩し
くて思わず目を細めた。助手席の土方はともすれば気圧されそうなほど機嫌よく笑んで煙草を
ふかしていた。


Spilled Milk


 
「運転手、とりあえず川の上流のほうへ」
「え?」
「いいから行けよ、川沿いに走れっつってんの」
「ええ?」
 土手で車に乗っているところをとっ捕まえた土方は、なんともいえない疲れた顔をしていて
思わずそこから連れ出したくなった。湿気も少ないしまだ暑くなりきらない陽気はドライブに
もってこいだ。という言い訳を考え付く前にドライバーを引き摺り降ろして発進させてしまっ
たのだが、驚くべきことに土方はちょっと驚いただけで何も言わずに煙草をふかしているだけ
だった。いつもならさっさと戻せだの降りろだの公用車を私用に使うなだの悪口雑言の限りを
尽くしてくれるはずが、何してんだの一言で、途端に自分が何をしているのか、彼をこのまま
連れ出していいものかわからなくなった。結局引っ込みがつかずにここまできてしまったわけ
だが。不審に思って訊ねると、本当は今日は休みだったのだという。行きたいところがあるか
らと、川沿いに車を走らされていた。公用車なのにいいのかと訊くと、「たまにはいいだろ」
といってまた笑った。その顔には濃く隈が浮かび上がっている。疲れた顔だと思った。その肩
にはきっと、今の俺には背負いきれないいろんなものが重くのしかかっている。でも、外から
見て重そうだと思っても、彼自身が重さを感じていないのなら、俺がどうこう言っても仕方が
ない。彼にとってそれは、荷物でもなんでもないのだから。それでも、放っておけばそのまま
潰れてしまうことは過去の経験から知っている。いろんなものを抱え込む人間は、自分で自分
の限界点を分かっていないものが多い。だから、ガス抜きでも何でもさせてやれるなら、俺は
喜んで手を貸そう。普段取り付くしまもないほどかっちりしている土方だが、偶に、ごく偶に
妙な気まぐれを起こすことがあった(それは良く、俺が起こすことのほうが圧倒的に多いのだ
けど)。きっと今日のこれもその一つだろうと結論して、とりあえずは今の状況を楽しむこと
にした。
 ぱりっとノリのきいたシャツからは微かに煙草の臭いがした。闇色の上着は脱いでしまって、
スカーフも取ってボタンを23開けている。普段夜にしかその姿は見れないから、なんだか新
鮮な気持ちがした。シャツの間からのぞく白い肌に触れたくなって手を伸ばす。でも、どうせ
殴られて終わりだろうと思って手を引くと、触れてもいないのに微かに彼の体がこわばったよ
うに見えた。どうしよう。どうすればいいのかわからない。今日の土方の間合いがわからない。
「おい、馬鹿、前見ろ、前、前!」
「うおっ!」
 指摘されてあわてて急ブレーキをかけると、まだ距離があると思っていたのに目の前に車の
尻があって驚く。辛うじてぶつからずに済んだものの前の車が行ってからもまだ動悸が治まら
ない。慌てて土方のほうを見ると、目を丸くして俺のほうを向いて「馬っ鹿じゃねーの!あぶ
ねーだろ!」と言った。言葉の乱暴さの割にその顔は笑っていてこれはいよいよまずいかなと
思った。お前、ここは怒るべきところであって笑っちゃまずいだろ。いつものおまえなら怒っ
て、怒鳴りながら俺の頭をたたくべきなのに。呆れて、大丈夫かなんて言うと、よほど間抜け
な面をしていたのかそれはてめーのほうだと笑って俺の頭をたたいた。全く、本当に調子が狂
いっぱなしだ。そのまま川の上流のほうへと走り続けた。
 走っている間、土方は最初の10分間事故りかけたことでからからかい、次の10分間は黙
り込んで、20分程前に土方は眠りについた。眠っているときの土方の顔は実際の年齢よりも
若く見えた。険のある目は薄い瞼の奥に隠れ、常に刻まれている眉間のしわは平らになってい
る。開いているほうの手で彼の頬をそっと撫でると、微かに身じろいだだけで目を覚まさなか
った。そのまま右腕まで手を下げると、薄いシャツの下に包帯らしい感触があった。土方とい
るときの俺は常より無謀になるきらいがあって、それはまた土方も同じかもしれない。窓の外
の景色は知らない交差点、知らない民家が並んでいて、空はだんだんと色を変えていくしで年
がいもなく迷子になった子供のような心細い気分になる。そういえばどこに行くか訊いてなか
ったとそれからさらに20分程走った頃に気づいたところで、いつの間にか目を覚ましていた
土方に車を止めるように指示された。
 止まったところは幅の広い川と狭い川が交わっている場所の、割と小さな橋のたもとだった。
辺りにはコンビニの光一つも見えなかった。これからどうするのか訊こうとすると、土方は俺
ひとり置いてさっさと橋を渡っていってしまう。慌てて後を追う。土方は煙草だけを持って橋
の丁度真ん中から夕日を眺めていた。彼の横に立つのは何故かためらわれて、少し後ろからそ
の光を眺めた。赤い、赤い光が少しずつ地面に飲み込まれていく。川面が金色の波を作り出し
てとても懐かしい光景に思えた。それが何故かはわからないが、夕日を見ているととても懐か
しくて寂しくて暖かい気持ちにさせられる。後ろからでは土方がどんな顔をしているのか、全
く分からなかった。
「ここ、来たかったの」
「ああ、偶に来てんだよ。小さい頃、まだ俺が本当にガキだった頃、すげー田舎にいてさ、そ
こにでかい川があって。夕暮れになると、目に見えるもの全部が赤く染まって、何にもねぇ田
舎だったけどその光景だけは好きだった」
「こんな感じ?」
「まあ、な。似てはいるが、やっぱりあっちのほうがいい。多分、美化してんだろうけどな。
ああ、でも、上手く説明できねぇな」
「そんなもんだろ。目で見たものなんざ。俺はこれで十分に綺麗だと思うけど」
「まあな……でも、お前にも見せたかったな。本当に、綺麗なんだ。記憶が一緒だったらよか
ったのに」
 そう言って、土方は少し笑ったように思う。
 ああ、土方。土方。俺もそう思うよ。記憶が一緒だったらよかったのに。俺とお前が同じ人
間だったらよかったのに。全てを共有してしまえたらよかったのに。
 堪らなくなって、さっき包帯のあった箇所の腕を取ると、土方は顔色も変えずにただ沈み行
く太陽を見つめていた。もう水はその許容範囲ぎりぎりまで来ているのかもしれなかった。そ
うなったとき、俺は後悔するのだろうか。もっと、お前から色んなものを奪ってしまえばよか
ったと。
「痛ェ」
「あ、悪ィ」
「お前それ、全然悪ィと思ってねぇだろ」
「ばれた?」
「確信犯だろうが、思いっきり力込めやがって」
 思っていたよりも手に力を込めていたことを指摘されて、慌てて少し手を緩める。今日はこ
んなのばかりだ。初めて俺のほうを振り返った土方は笑っていた。燃えるような夕日の中で、
満たされたように笑っていた。今日はきっと、世界が終わる瞬間によく似ているのだろうと急
に思った。
「ああ、銀時。夕日で思い出した」
「何」
「台風の後って、遊びに行くだろ」
「ああ、行くね。なんか、いつもとちょっと風景が変わってて、すげー興奮した」
「台風の後の夕焼けもこんなだったな、確か。そう、世界が燃え尽きそうなくらい赤くて。橋
の欄干ぎりぎりまで水が来てて、それが好きでさ、橋から乗り出して眺めては、よく怒られた」
「……だろうね」
「お前もやらなかったか?ガキの頃」
「やらねぇよ」
「やるだろ、普通。一回位は」
「やらねぇから、普通。あのな、土方。お前はちょっと、捨て鉢なところがあるんだと思う」
「何だそれ」
 つかんだままの右腕を離して、可能な限りそっと、そこに触れる。労わるように。彼が気づ
けるように。土方は、俺の言わんとしていることがわかったのか、少し体をこわばらせた。そ
れから、さっきは少しも表情を変えなかったくせに、触れてもいないのにひどく傷ついたよう
な顔をして、俺は動揺した。俺の、何が彼を傷つけたのか、全くわからなかった。
 だって、お前は時々死にそうなくらい孤独な顔をするだろう。
 なのに、どうして笑えるんだ。どうして、笑っていられるんだ。
「何だよ、それ。それは、お前だろ。知らねぇとこで危ないことに首突っ込んで、傷作ってん
だろ。それで、お前は俺にばっかり言うのか。お前は、」
「ごめん」
「違う」
「ごめん」
「違う……もういい」
 土方は、何だか分からないがとりあえず謝っておこうという俺の思考をわかっていたのかも
しれない。帰るぞと言いおいて車のほうへ戻っていってしまった。俺はどうしていいのかわか
らずに、橋の真ん中に残っていた。振り返ってみた夕日は、もう既に地面の下だった。遠くに
微かにターミナルの明かりが見える。
 だって、土方、俺は少しお前の孤独を分けて欲しかっただけなのに。



060704
どちらも分かっていない(つまりたちが悪い)。