昔は多分、世界が壊れるということにひどく敏感で、しかしそれを恐れていなかったように思う。
世界は、硝子のよう、と例えてもいい程研ぎ澄まされて冷たい空気をしていた。一つでも常と違う
事柄が起きれば澄んだ音をたてて全てが壊れてしまいそうだった。備え付けの時計を確認して、渋滞
に捕まって遅々として進まない車に土方は舌打ちを一つ零した。途端、運転させていた部下が身を竦
めるのを見て溜息を堪え切れない気分になる。鬼と呼ばれるように振舞ってきたのは自分だが、こう
もあからさまに怯えられるとそれ自体に苛つきたくもなる。もう一度時計を見て、体を運転席に向け、
もっと急げと口を開きかけるが、しかし土方はその言葉を音にすることは止めた。約束の時間には1
時間ばかり遅れているのだから急がなくてはならないのだが、そこに急いでまで行く必要はないよう
に思う。というよりは、できればそこに行きたくなかった。行ったところでどうせまた、自分ばかり
が不愉快な行為を迫られるだけなのだ。なのにそれを、結局拒みきれないのは、なぜか。苛々と火を
揉み消す土方に怯える部下に苛立ちながら、新たな一本に火をつけた。
目的地まではまだ数百メートルばかりあったが、怯えてばかりいる部下に嫌気が差したのと、あの
男、と待ち合わせていることを悟られたくないのとで、ちょうど赤信号で止まった交差点で降りて、
残りの距離を歩いた。交差点では制服を着た少女が寒そうにティッシュを配っている。酔った男が道
端に座り込んでいる。隊服は着たままなのだが、管轄外の上に勤務時間外だという言い訳で、目もく
れずに足早に歩いた。面倒なことには関りたくなかった。通りの反対側では、まだバレンタインまで
一月程あるのに気の早いディスプレイが幸せそうな光をたたえていた。光り輝く赤と金とその象徴的
な形は土方にとっては無縁のものだった。一方的に押し付けられることは多々あっても、その背後に
あるのはただの幻想でしかなく、そのくせ実像を知った暁には勝手に失望されるのだ。それを容認し
てまで受け取るほど裂いてやれるだけの余裕はなかったし、土方はそこまで女に興味がなかった。唯
唯、面倒としか感じられなかった。
約束をしていた時間よりも大分遅れてたどり着いた居酒屋は、時間のせいもあって会社帰りの人間
で混み合っていた。焼き物と煙草の煙で空気は白く、がやがやと既に騒がしい入り口で満席なのだと
告げる小柄な店員の申し訳なさそうな応対に適当に相手をしながら土方は目を眇めて店内を見回した。
坂田は奥のほうのカウンター席に座って下を向いていた。土方には気づいていないようだ。カウン
ターには小皿が幾つかと徳利が1つ並んでいて、そのどれもが空になっていた。
土方は、坂田が時々こうして自分を呼びつけることの意味が、余りよくわからなかった。会っても
特別嬉しそうなそぶりは見せないし、むしろ常よりも無表情といえた。会うたびに半ば無理やりホテ
ルに連れ込んで触って来はしても、セックスはしない。言外に嫌いと言われたことはあっても好きと
言われたことはない。
坂田が土方に何を求めているのか、よくわからない。土方にとって坂田は友人だった。こんな妙な
関係が友人という概念に当てはまるとは到底思えないが、それでも一番近いのは友人だった。尤も、
坂田がどう思っているのか知る由もないのだけれど。
「銀時」
すぐ近くまで近付いて声を掛けると、坂田はようやく気付いて顔を上げた。瞬間は、いつだって上
の空のように見えた。死んだ魚のような目と評されるその目は、何を映しているのだろう。土方を認
めてすぐその顔は薄い笑みに変わる。嘲笑のようだと思う。蔑むような、見下すような。
「悪いな、遅れた。書類を片すのに手間取って。急いだんだが」
聞いているのかいないのか、坂田は黙ったまま席を立った。ついてくると信じて疑わない背中を土
方がぼうと眺めていると、数歩進んだところで不意に振り返って声を出した。
「何してんの。早く来いよ。席ないし、ここじゃお前座れないだろ。店変える?それとももう、ホテ
ル行く?」
大きな声だったので、数人が反応して振り向いた。気付いていない振りをして足を踏み出す。胸中
で罵倒した。新宿ではそれなりに顔の知れた二人に、しかもこちらは隊服を着用しているのだ。少し
は、気を遣ってもいいものを。
一月も中旬の外気は、まだまだ真冬の温度だ。つい1週間前までは正月一色だった街並みは、徐々
に赤く塗り替えられつつある。ショウウィンドウの柔らかそうな服。色とりどりのラッピングで彩ら
れた菓子屋。ルーフから吊り下げられた赤いハート。幸福の象徴。どこもかしこも愛で溢れる中を、
二人で黙って歩く。
銀時、お前は俺が見えているだろうか。此処にこうしているのが、ちゃんと俺だとわかっているだ
ろうか。他の誰でもなくて、俺だと。
盗み見るようにして確かめた坂田の表情は、やはりどこか上の空のように見えた。
*
例えば。例えば、坂田と土方の関係が所謂恋人というものになったとして、うまくいくかと問われ
れば確率は土方の上司が志村妙に受け容れられるよりも数段低く、小数点だと土方は思っていた。そ
もそもそんなことを思いついた自分自身の思考に嫌気がさしたが、だったらこの行為の意味は一体何
なのか。出会ってから1年と少しの間、幾度も繰り返されてきたこの行為の意味は。
下着とパンツだけ身に着けて、ベッドの端に腰掛けていた。床に放り出したままだったシャツに腕
を通してボタンを留めようとするが、指先が震えてうまくいかない。土方はそれを坂田に恐怖してい
るせいだと思いたくなかったし、恐怖とは、少し違うような気がした。どこかにずれが生じている。
どこに。何もかもに、だ。
土方はシャツを着るのを諦めて、誤魔化すように窓の外を見た。今日のホテルは目測地上20メー
トルばかりあって、いつもと違い窓の外は壁ではなく、騒々しい夜の街が見えた。月に数回、片手で
足るくらいかもしくはそれ以上の頻度で会っているのに、どこから捻り出しているのかホテル代はい
つも坂田が払っていた。尤も、当然出せるのは高が知れていて余り良いとは言えない造りのホテルに
なる。今日は今迄の中では破格のいい部屋と言えた。街のイルミネーションはバレンタイン仕様にな
っているのか何時もよりも赤が多い。
部屋の中には数分前、気まぐれで坂田がつけたFMラジオが薄く流れていた。外国の女性歌手の歌
だ。あなたのまなざしもほほえみも……恋のしあわせに息をつまらせて……外国語など全く知らない
のに歌詞が聞き取れるのは、それが、坂田と会う前に数ヶ月だけ付き合った女が好きでよく聞かされ
たものだったからだ。何という皮肉。女性の柔らかで甘い声が余りにこの部屋に合わなくて、俯いた
まま微かに口の端を上げる。
微かに布ずれの音がして何気なく振り返ると、坂田がベッドに横たわったまま頭を腕で支えて土方
の方を見ていて、少しだけぎくりとする。弱味を見せたくないので表には出さない。余裕があるよう
に見せていたいので皮肉に少し笑む。坂田は動かない。探り合っているようだと思う、お互いに。坂
田は様々なことに無関心で無神経に見えて、馬鹿ではないし根底の部分では聡いから本当は気付いて
いるかもしれない。
「寝ないの。明日も仕事なんだろ」
「いや、」
体をずらしながら声を掛けられて、その場所を見た。自分のための場所。白いシーツが少し窪んで
青く影ができている。いや、の後に続ける言葉が喉まで出掛かっていたが、舌の上に乗せるのは躊躇
われた。明日は非番だ。だが、それを言ってどうなる。どうしてそれを告げる必要がある。この不愉
快な時間を長引かせるだけではないか。それではまるで、まるで。
「こっち来いよ」
そのまま身動きがとれずにいると、坂田は上半身を起こして片手で手招きをした。今度は素直に従
い足を運ぶ。抵抗という言葉は最初の数ヶ月で忘れてしまった。抵抗して手酷く扱われた記憶はまだ
そう遠いものではない。今すぐ消してしまいたい。尤も、土方は自分が忘れようと思ったことは案外
綺麗に忘れてしまえる性質だと知っていた。唐突に物事を諦めることができる。そうでもしなければ
やっていけないことが多すぎた。意図的に無関心を作り出せる点で、坂田と土方は似ていると言えた。
坂田の隣まで辿り着くと、身を乗り出してきた坂田に腕を捕まれて土方は少し体制を崩した。首の
後ろをつかまれて頭を引き寄せられる。そのまま口付けられて、咄嗟に土方は目を閉じた。耳の奥に
さっき聞いた歌が流れる。恋のしあわせに息をつまらせて息をつまらせて息をつまらせて。幸せな音
をしていると思った。最初は触れるだけだったものが段々と深くなり、開放される頃には土方の息は
乱れていた。幾度も口付けられる。坂田の白い指が首筋をたどる。慣れた口付け。慣れた指先。その
どれもが幸せな恋とは程遠い。坂田とは厳密な意味でセックスをしたことが一度もなかった。執拗に
触られて、いつだって土方一人が追い詰められて、息を乱す。
「まだやんのかよ……」
土方が呟くと、坂田は下を向いたまま少し笑った。
坂田が始めて、坂田が続けてきたこの行為の意味を、土方は知らない。他人の思考を測ることは無
意味であり、いくら考えたところで推測の域を出ず、それも見当外ればかりだ。いくら考えても同じ
結論には至らない。けれど、坂田は、想像したことがあるだろうか。
着たばかりのシャツを剥がれながら土方はぼんやりと思考する。思考を止めたいのに意識を逸らせ
るだけの切欠が見つからない。考えたくない。友人と思っている人間に組み伏せられることの屈辱と
虚脱を。数分後にはその背中に縋りつくことになるだろう自分の身体を。唯でさえ無意味なのに更に
無意味な行為を繰り返す意味を。理解を諦めることで傷つくこともあるのだと、坂田は知っているだ
ろうか。
視界の端でFMラジオの電光がちらちらと揺らぎながら光っていた。
*
何処からか湧いてくる馬鹿を取り締まって、警備の計画を立てて、捕り物をして、偶に同僚と飲ん
で愚痴を零す。山のような書類と格闘して、お偉方に対応して、我を通す。幻想を抱く間もない現実
の連続が、土方は好きだった。余計なことを考えずにすむ。自己を演じるために必要なものは、それ
程多くはない。だが、坂田の存在は土方の世界に現れた異物だった。坂田のせいで、シンプルだった
土方の世界は壊れてしまった。自己を保つために気を張らなければならくなった。それでも、呼出さ
れたら会いに行く。そうなってしまった自分自身が、土方にとって一番理解しがたいものだった。
坂田と会うのは比較的久しぶりのことだった。仕事が立込んでいたのか、また怪我をして入院でも
していたのか、単なる気紛れなのかはわからない。どちらにしても、坂田に呼出されれば自分は黙っ
てその場所に行くだけなのだ。理由もわからないまま、抱き締められて、口付けられて、撫で回され
て、泣きながら喘ぐ為だけに。
バレンタインまで1週間と迫った街は、今ではすっかり赤く染まって知らない国のようだった。菓
子屋だけでなく、何処もかしこも赤い包装と心臓を意味するデザインに彩られている。衣料品店も、
コンビニも、宝飾店も、レコード店も。
坂田は立ち並ぶ食料品店の店先で、一山いくらのチョコレートを売っているワゴンに視線をやって
いた。お世辞にも「お嬢さん」とは呼べない女たちが群がっている。
「ああ、銀時」
ふと思い出して土方が坂田に声を掛けると、ワゴンから目を離して坂田は身体ごと振り返って「何」
と笑った。イルミネーションの光が頬に当たっている。
「お前、菓子好きだよな」
「おう。何、何かくれんの」
「14日過ぎたら屯所に来いよ。すぐでもかまわねぇけど。菓子類が処理できねぇ程来てて、困って
んだ。物色してけよ」
「何ですか、それは嫌味か?嫌味なのか?」
「ちげーし。マジで困ってんだって。ただでさえ部屋数足りてねーのに、今日までの分だけで1部屋
埋まっちまってんだよ」
「わかってるって。意外と真撰組ファンってのはいるんだよな。15日に引き取りに行くから、纏め
とけよ」
「意外とって何だ、意外とってのは」
坂田はまた前を向く。すぐにあ、と呟いて足を止めた。
「何だよ」
「俺、お前に渡したいものがあるんだった。ホテルで渡す」
「ああ」
土方といるときにしては珍しく、何の含みもなく笑って言うものだから、土方はそれしかできない
子供のように素直な仕草で、頷くしかできなかった。
抱き締められて、口付けられて、撫で回されて、泣きながら喘ぐ。
二度目に触れられている最中に、坂田は唐突に目の前に小さな紙袋を差し出した。余りに唐突だっ
たので土方は一瞬動きを止めて、押し付けるように差し出されたそれを反射的に受け取った。中身は
何か、小さくて硬いものだった。
「この前行った依頼先で偶偶みつけたんだけど、それ、お前に似てんだよ。貰ってきたから、やる」
言い置いて、坂田は浴室へと向かってしまった。触れられたいわけではないが、置き去りにされた
熱がもどかしくて溜息をつく。緩慢な仕草で袋を開けてみるが、覗き込んでみても明りが暗くて中は
見えない。片方の手の上で無造作に紙袋を逆さにすると、転がり出たそれは一旦土方の手の上で跳ね
てベッドの上に落ちた。浴室からの明りを僅かに捕らえて光るそれは、透明な硝子の猫だった。
「何だ、これ」
猫は、小さくて、硬くて、冷たくて。頑なで、とても孤独な形をしていた。
坂田の目に映る自分は、こんな姿をしているのだろうか。こんな風に、身体を守るように寂しそう
に丸まっているのだろうか。
ぱたぱたと布に水が落ちる音がして、ようやく土方は自分が泣いているのだと気付く。気づいた途
端に嗚咽が一つ漏れて、唇を噛締めた。涙腺が壊れてしまったように涙はあとからあとから湧き出し
てシーツを汚していくので、土方はそこに蹲って嗚咽を噛殺しながら涙を流し続けた。寂しくてたま
らないと思った。
*
寂しかったのだろうか。本当は、ずっと寂しかったのだろうかと思う。
本当は、既に世界が壊れてしまったことに気付いていたのだ。それを怖いと感じるのではなく、自
分が生きてきた世界をなくしてしまったことが寂しかったのだと。
蹲った格好のまま泣き続けて、土方はぼんやりと顔を上げた。硝子の猫はまだベッドの上に転がっ
ていた。持ち歩いたら良いのか、飾ったら良いのか、そもそもどう扱ったら良いのかわからない硬質
の塊。それを乱暴な小娘から取り上げている坂田を想像して、土方は少し笑った。
仕事を詰めて、忙しくして、心配されないように偶に休みを取ってみせて、坦坦と過ごすことで余
計なことを考えないで済む生活を、土方は簡単に生きてこれたはずだった。しかし、考えないことが、
意識しないことと直結しないことを土方は坂田によって思い知らされていた。こんなものの所為で、
こんなものを突然寄こしてくる人間の所為で、土方の安全な世界は一瞬にして壊されてしまった。
手を伸ばす。指先が微かに震えているのがわかって嫌になる。そっと触れた硝子の猫は冷たくて、
土方はどうしようもなくなって拾い上げたそれを強く床にたたきつけた。硝子は想像していたよりも
大きな音を立てて床に当たって、意味を成さない欠片になって散らばった。壊してしまった途端に、
とても酷いことをした気分になる。
「お前、何で泣いてんの」
不意に頭上に静かな声が降ってきて、はっとして土方が自分の泣き顔を意識する間もなく顔を上げ
ると坂田がぬれた髪もそのままにそこに立っていた。坂田は濡れた土方の頬を見ても表情を変えなか
った。相当大きな音がしたし、裸足の足元に破片が落ちているのだから確実に気付いているはずなの
だが、坂田は気付いていない振りをしていた。坂田がそういった気の遣い方のできる人間なのだと今
更ながら気付かされる。
「餓鬼みてぇ」
ぽつりと呟かれて、余計に涙が出る。止めようと思うだけの余裕は、土方の中に生まれなかった。
濡れた髪を拭きながら、坂田は土方の横に勢いよく座った。安物のベッドが大きな音を立てて軋む。
泣きはらして痛む頭が衝撃でぐらぐら揺れた。
坂田の所為で寂しいのに、寂しいから離れたくないのか、脅されるから会いに行くのか、好きだか
ら傍にいたいのかもう良くわからなかった。
「ぎん、とき」
「は、お前、そうしてると本当に餓鬼みてぇだな。泣き止んでから喋れよ」
「銀時、銀時……セックスがしたい」
「……馬鹿だな」
「セックス、が、したい」
「お前、本当に馬鹿だよ」
土方は、直截的な手段と言葉でしか、今の気持ちを伝える方法を知らなかった。
隣にいる坂田の腕に縋るように手を這わせると、坂田は困ったように笑んで下を向いた。坂田は、
嫌なのだろうか。嫌だからセックスをしなかったのだろうか。
表情の変わらない坂田を押し倒して、服をはいでゆく。口付けても探るような眼で静かに土方を見
るだけで、何もしてこない。口付けて、肩を舐めて、腕を触って、身体を押し付ける。求められてば
かりいたから、求める方法を忘れてしまった。
どうしたら。どうしたら伝わる。
脅されて触れられるのは、言い訳になっていて楽だった。だけど。
反応のない唇に口付ける。何度目かに首筋を食んで、それでもただ静かに見詰められるだけで汗で
はない水が坂田の上に落ちる。次第に羞恥で惨めな気分になって身体を離しかけた瞬間、追うように
して伸ばされた腕に強く抱き締められると土方は縋るような思いでその首にかきついた。
銀時。どうして俺は、こんな思いまでしてお前といるんだろう。
土方は、初めて坂田とセックスをした。坂田とのセックスはとても穏やかなものだったが、最後に
まるでずっと欲しかったもののように土方の身体を強くかき抱いてきたので、土方は考えることを放
棄してその頭にしがみついた。ともすれば全てを持っていかれそうな位幸福で、そして同時に酷く寂
しかった。
どこかで外国の歌が流れていた。
*
大切なものを、大切にする方法を知らないまま大人になっていた。
細かい細工の施してある引き戸を開けた。
一歩踏み込んだ店の片隅には、透明なセロファンと赤いリボンで包装された日本酒が飾られている。
添えられた可愛らしいメッセージカードにはSt.Valentineの文字が躍る。週末の居酒屋
はまだ開店したばかりだというのに既に満席に近い状態だった。隅の方のカウンター席に案内されて
其処へと腰を落ち着けるなり、坂田は店内の時計に眼をやった。約束の時間は10分ばかり過ぎてい
た。首を伸ばして周りを見渡す。見知らぬニンゲンばかりで土方の姿はなかった。
来ないかもしれないとふと思う。
それから、その思いつきに想像していたよりも傷ついている自分がいた。土方が来ない理由は山ほ
どあっても、彼が来る確証は欠片もなかった。来ないかもしれないと思う度に、じりじりとした焦燥
感に苛まれる。今まで、来ないかもしれないと思ったことは一度もなかったというのに。
仕方なく注文を済ませると坂田は溜息をついて深く項垂れた。今迄何度同じことを繰り返してきた
のだろう。
土方のことが好きだった。
好きで好きで、どうしようもないくらいに大切だった。
最初に街で土方を見掛けたときには、なんて寂しそうな人間なのだろうと思った。笑っていても、
怒っていても、どこか寂しそうに見えるだなんて、何という思い込みなのだろう。その顔が楽しそう
に輝くのは命のやり取りをする瞬間だけで、放っておいたらすぐに死んでしまいそうだと思った。大
切にしたいと思った。本当に、大切に。
まだ青い子供だった頃、大切なものを守るために必死になっていた。全て腕の中に留めておけば守
れるのだと思っていたのに、数年が経って気付いた頃には手の中に残っているものは何一つなくて、
ああ、方法を間違えたのだと唐突に悟った。馬鹿正直に真正面からぶつかるから何もかもをなくすの
だと気付いたのはそれでもごく最近になってからなのだけど。
また、失くすのだろうか。
大切にしたいのに、その方法がわからなかった。闇雲に捕まえているだけではいけない。かといっ
て突き放しても失くしてしまう。だとしたら、どうしろというのだ。結果が、この中途半端な関係だ。
好きだと言ってしまいたかった。好きだと言ったら終わってしまうような気がしていた。セックスを
してしまったら、壊れてしまうような気がしていた。大切にしたい。
大切にしたい、のに。
見上げた時計は一時間を過ぎていた。何故来ない。
がらりと何度目かに扉が開いて、反射的に坂田はそちらに目をやった。見知らぬ人間の後について、
見慣れた黒い隊服が目に入る。その姿を認めて坂田は驚くくらい自分が安堵しているのがわかった。
よかった。
土方が眩しそうな顔をして店内を見回している。土方はまだ坂田がいることに気付いていないようで、
坂田は咄嗟に目を逸らした。土方が来たことに気付いていることを気付かれたくなかった。気付かれて
はいけないような気がしていた。
もう、何でもいいから傍に居てくれ。自分のことが嫌いでも構わないから、其処に繋ぎ止めてしまい
たかった。そんな方法では、いずれまた失くしてしまうのだろうけど。それでも。
「銀時」
震えるほど愛しい男の声が、すぐ後ろでした。
060718
すぐ泣く。