お登勢に借りた電話を切って一息つくと、隣と正面から心配そうな視線が降り注ぐのを
感じた。大丈夫だ、と笑ってみせて、ふらつく身体を引き摺って自分の家へと戻った。暖
房を切らずにいたから (正確には、其処まで頭が回らなかったからなのだけど) 寒くはな
いが、冷え切った床板で裸足の足が酷く痛い。明りをつけないまま、コップを出すのも面
倒で水道水を蛇口から直接飲んだ。冷えすぎた水が歯にしみる。肌を伝って流れた水が、
甚平の合わせに滲みて寒い。金属製のシンクが水を跳ね返して耳障りな音を立てていた。
元元この音は余り好きではないが、発熱している頭に響いて余計に気分が悪くなった。小
さな窓から漏れ入る光も歪んで見える。早く布団に戻って眠ってしまいたいが、直ぐに動
くとさっき飲んだ水を全て戻してしまいそうでしばらくその場で上を向いて立っていた。
お登勢のところへ行く十数分前まで、俺は土方のことを考えていた。
多分あいつは、俺の前でまともに笑ったことがないんじゃないか。思い出せるのは綺麗
に皺の寄った眉間と、煙草を銜えて不機嫌そうに歪められた口元ばかりだった。そのくせ、
真撰組にいるときは驚くほど簡単に笑う。黄色い頭の餓鬼がどれだけ酷い振舞いをしても、
ジミー君がどれだけサボっていても、最初は怒るくせに結局はしょうがねぇなあ、という
顔をして笑うのだ。きっと、それはあいつ等が土方の内に居る人間だから許されているの
だろう。
しょうがねぇなあ。
いつかは俺のこともそうやって笑って許してくれるのだろうか。
土方はどうして俺と居てくれるのだろう。
何時も何時も俺ばかりが求めていた。甘味屋に行く程度のデートだとか。請われて初め
てするキスとか。決して情熱的とは言えないセックスだとか。そんなものばかりが思い出
される。多分、どちらかが一言告げるだけで終わってしまう程度の関係なのだ。あいつの
中では。
それを悔しく思う前に、まず悲しかった。それから、寂しいとも。
突然、呼び鈴が鳴って、思わずため息が漏れる。早く行かなくてはならないのだけど身
体は動いてくれなかった。扉を開ける音。俺の名を呼ぶ声。独り言のような声。鍵を掛け
るような音。そういえば鍵を掛けていなかった。耳を済ませなければ聞こえないような足
音。がらりと居間に続く扉が開いて、土方は暗かったと一言告げて顔を顰めてみせた。
「何で」
「鍵かかってなかった」
「いや、そうじゃなくて」
「何笑ってんだ、気色悪ィ」
何か言おうとして、声に出す前に小さなクラフト紙の紙袋を押し付けられる。舌打ちを
一つ零して中を覗き込むと、解熱剤が2箱入っていた。しかも御丁寧に、滅多に見つから
ないはずの苦い顆粒状のやつと錠剤のやつだった。多分此処に来るまでに態態探して購入
してきたものだろう。
「お前これ、」
「飲めねぇとは言わせねぇぞ。餓鬼じゃあるまいし」
「えー。俺宇治子供シロップじゃねぇと嫌だ」
非難がましく見ていると手の中から取り上げられた。
「よく効くんだよ。実証済みだ」
「えー」
「で、どっちがいい」
「……じゃあ、錠剤のほうで」
「布団入ってろ。持ってってやるから」
薬が口に入った瞬間の苦味を思い出して思わず顔を顰める。黒い背中がうきうきして見
えるのは気のせいだろうか。部屋は充分暖かいはずなのに寒気を覚えて大人しく布団に戻
った。吐く息が気だるい熱を持っていて、項垂れるように下を向いた。頭の芯がぐらぐら
する。しっかりと閉じたはずの襖から明りが漏れて、土方が薬と水を持ってきたのがわか
った。顔を見ようとしても、逆光になっていてよくわからない。
「がたがた言わずに飲め」
「やだ」
「餓鬼かよ」
「心は何時も少年って言ってんじゃん。……あ」
「何だよ」
「口移しなら飲んでやってもいいかも」
言ってから後悔する。やってくれるはずがない。今度こそ本当に項垂れて下を向くと、
ふっと、土方が笑ったような気がした。
小さく、本当に小さな声でしょうがねぇなあ、という声が聞こえた。
名前を呼ばれて反射的に上を向くと、顔が程近くにあって驚く。唇に何か小さなものが
押し当てられた。錠剤だと分かったときには無理やりこじ開けられた口中に指ごと口の奥
に押し込まれて、そのまま口付けられる。訳が分からないままに貪られて、息苦しさに喘
ぐ。からからに乾いた口中で、土方の唾液に溶かされた薬が苦い。俺のほうが発熱してい
るのに、土方の舌の方が熱いと思った。鼓動が速い。気付いたときには既に錠剤を嚥下し
ていて、それを確認した土方がゆっくりと離れていった。
薄暗い中で見た土方は、俺のほうが驚いているはずなのにとても驚いた顔をしていた。
「ちょ、お前、」
「何だよ」
「真っ赤……ってそうじゃなくて。ちょ、ちょっと、これ、まだ2錠あるから」
「冗談じゃねぇ、後は自分で飲め!」
「え、うそ、いいじゃん!あ、待てって!」
「あ、馬鹿か手前ェ!それだけ元気なら薬はいらねぇだろ!ちょ、まじやめろって!」
笑いながら戯れていると急激に熱が上がったような気がした。
俺を見掛けるたびに寄せられる眉間の皺だとか、不機嫌に閉じられた、何故か寂しげに
見える煙草を銜えた口元だとか。多分いつまでたっても最初に思い出すのはそんなものば
かりだ。だけど、少しずつでも俺はあいつの中に入っていけている。もうすぐ、しょうが
ねぇなあ、と笑って許してもらえるような、だけど本当はもっと、そんなことも考え付か
ない程笑って、笑わせて、それから。
幸せな恋ではない。安らかな愛ではない、きっと。何処まで行っても終わりの予感に怯
えながら、それでも、俺はお前と一緒に居たい。
深夜。
脱衣所で、汗で濡れてしまった服を着替えて洗濯機に放り込んだ。寝る前よりは大分良
くなってはいるもののまだ視界が回っているような感覚がある。薬箱の中には一年前、土
方が買ってきた解熱剤と同じものが入っていた。やっぱりもう一度飲んでおいたほうがい
いかと考えるが、急激に胃の辺りに不快感がこみ上げてきてトイレで少し吐いた。ろくな
ものは食べられなかったから出てくるのは汚らしい色をした胃液ばかりだ。口を漱いで部
屋に戻ろうとして、ふと視界に土方が寝ているソファが入った。土方は、上着を着たまま
客用の布団に包まって眠っている。一年前と同じように、土方は夕方ごろ突然やってきて
寝込んでいる俺の世話を焼いたあと、前とは違って帰らずにここに泊まっていた。それは
前よりも俺の調子が悪かった所為もあるだろうけど、都合のいい頭はもう少し、土方の中
に踏み込めたのだと解釈した。一年、よくもったものだと思う。その間、どれだけ笑って
いてもどれだけ依存してもふとした瞬間に感じる終わりの予感は拭えなかった。それでも、
土方は其処に居てくれた。さらりとした前髪に触れる。艶やかな黒は部屋の気温よりも冷
たいように感じられた。
「ぎん、とき」
「悪い、起こした」
「いや……」
土方が上半身を起こそうとしているのを見て反射的に身を引きかけるが、限りなく丁寧
で、それでいて強引な腕にその場に引き戻される。冷たい髪。冷たい体。これでは土方の
方が風邪をひいてしまう。いや、俺が発熱してるからそう感じられるだけか。それから、
子供をあやす時のようにゆっくりと背中を撫でられた。
「まだ熱い」
「お前、寝ぼけてるな。感染るから離せ」
「銀時」
少し身体を離した土方の手が首に回されて、さらに距離が縮まる。口付けられると思っ
て胸中で少し焦った。
「土方。俺、さっきちょっと吐いた」
静止の意味で真面目に言ったのに、土方は少し笑って、触れるだけのキスをした。
060721
ケ・セィラはスペイン語で「なるようになる」。
銀さん、そんなに不安がらなくても。という話。
にしても、またもや季節外れ、すみません。なまじ冬が好きなもんだから……。