世界の終わり


 蝉の声が、うるさい。 天人が来てからこの国は、環境は全てががらっと変わってしまった。江戸の中心 部には木々がなくなり夏だというのに蝉の声が、遠くにしか聞こえない。それが耳 鳴りのようにワンワンと響いて気が狂いそうだったがかえって、たまに郊外にくる と空気と同じように存在し続ける蝉の声で窒息しそうだった。息が、できない。真 綿でじわじわと首を絞められるようにむせ返るほどの緑のにおいと湿気で息が詰ま りそうだ。もともと穴が空いていたのだが障子も、襖も全部取っ払っても慣れ親し んだ旧い日本家屋の、開放的なつくりにもかかわらず湿気は逃げていかず外の空気 と混ざり合い練り上げられて粘度を増し、体中にまとわりついてくる。片目を残し て逝ってしまった左目にも、見えないはずの明るすぎる乾いた緑が映っていた。昔 の夏はもっと優しかったような気がする。乾いた土のにおい。日差しでぬるくなっ た水。湿った空気。遠くでは陽炎が揺らぎ、それでも森の中に入れば冷たい空気が 体を包む。ひまわりの咲く、明るい季節。無邪気に走り回っていたあの村はもう存 在しない。庭の植木鉢ではしぼんでいるはずの朝顔が大輪の花を咲かせていた。空 の青を写し取ったかのような美しい色だ。今の俺には似合わない。この左目はあの 風景が懐かしくて幻を映し出しているのかもしれない。そんな目なら俺は要らない。  どこにも逃げ場はない。  みんな死んでしまった。  俺の居場所はどこにもない。  どこにもなくなってしまった。  畢竟、俺は狂い始めているのかもしれない。  ゆっくりと、それとも性急に?  変わってしまったのは夏だろうか、それとも俺?  そんなことはどうでもよかった。狂っているのならいっそその方が都合がいい。 この狂った世の中で生きていくには、少し頭がおかしいくらいがちょうどいい。い や、狂っていると自覚しているということは俺は狂っていないということだろうか。 それこそどうでもいい。どのみち、俺は。  昔は土葬が主だったのだが時代は変わり、人が増え、人死も増え、墓場が減った おかげで今では火葬されるのが主となっている。少しでも金があるやつはたいてい そうする。何の意味があってそんなことをするのか俺には理解できない。今土葬さ れるやつといえば田舎で野たれ死んだやつか犬猫くらいだ。墓を掘り返したところ で時間がたてば骨すら見つからなくなるだろう。そいつが生きた痕跡を残すことす ら許されなくなってしまったのだ。そしてこいつも、そうだ。 「俺ァそんなのはごめんだ。なァ、そうだろ?」  物言わぬあいつの、正確にはもとあいつであったものの肌をそっとなでる。この 熱気の中にあっても冷たく滑らかで、蝉の声をもってしても犯しがたい圧倒的な静 寂がその中にあった。白く冷たい小さな壺の中に、小さくなってしまったあいつが いる。魂の抜け落ちて人の形ですらなくなってしまった、ただ朽ちて行くだけの白 い抜け殻が、ごみ屑のようにおさめられている。  あいつを焼いたのは俺だ。火葬場ではなく、もう誰も使わなくなって忘れられた 窯場で焼いた。あちこちほころんでいるそいつは俺に、俺たちに似合いだった。あ りったけの薪を詰め込み、あいつの体を中に入れて二日間ぶっ通しで焼いた。その 間俺は一睡もしなかった。交代しようにも仲間は戦場で積み重なったまま腐ってい たし、もし人がいたとしても俺は一人であいつを焼いただろう。窯の小さな窓から ちろちろと燃える火を見ながら、俺は少しも眠くはならなかった。煙は全て後ろの 煙突から抜ける仕組みだったから、肉が燃える臭いはしなかった。熱に当てられて いたのかその間の記憶は夢のように現実感が薄く、記憶は曖昧だ。二日たって覗い たそこは、地獄のように黒く、熱かった。そこから窯を冷やすのに二日間かかった。 俺はその間死んだように眠った。眠りたいのはあいつだったかもしれない。窯に火 を入れてから四日目、釜の中にようやく入れるようになると木屑も見えず、ただ白 い骨が残っているだけだった。頭蓋も背骨も腕の骨も足の骨も薄く、脆く、軽かっ た。あれだけの大男がこんな小さな骨になるなんておかしなものだ。それから、そ の骨は、どっかの破れ寺からくすねてきた骨壷に入れた。骨はもとのあいつに比べ ればかなり小さくなってはいたが、それほど大きくない白い骨壷にはとても全部な んて入れられなかった。頭の骨と、首の骨と、小さいが形の綺麗な骨を選んで入れ た。残りは適当に集めて川に流した。  何だか笑えた。  蝉の声が止んだ。  風鈴の音がする。もしかしたら今までも鳴っていたかもしれないが、蝉の声のせ いで気づかなかったのだろう。遠くで雲がわいている。恐らく今夜は雨だ。  骨壷の蓋を開ける。  入れたときと同じように、それは静かにそこにおさまっていた。手でつかむと脆 くほろほろと指の隙間から欠片が落ちてしまう。  そのまま口に運んでさり、と食んだ。  味はない。だが高級な干菓子のように口の中で解けるようになくなった。そのま ま嚥下する。また一つつかんで、同じように。 「何をしている」 「なんだ、ヅラか」  刀をつかんで振り向くと腐れ縁の桂がいた。もしこいつじゃなかったら既に切ら れていただろう。それだけの間合いにいた。桂も俺と同じように、戦に破れて疲れ た顔をしていた。 「ヅラじゃない桂だ。人がいると思えばお前だ。どうした、俺が声をかけるまで気 づかないなんてお前らしくない」 「なんでもいいだろ」 「それは何だ。何を食っている」 「さっきから質問ばっかじゃねェか。……干菓子だよ。お前も食うか」  桂は俺の横に億劫そうに座って無造作に骨をつかんだ。 「ひとつもらう。……なんだこれは。骨壷じゃないか、悪趣味な」 「何でもいいだろうるせェな。食うなら食え」  怪訝そうな顔をしながらそれを、食んだ。 「味がしないぞ」  思わず顔が緩む。 「それは骨だ」 「何?」 「骨だっつったんだよ。三郎の」  そのときの桂の顔と言ったら!  桂はあわてて畳の上にそれを吐き出した。顔が青い。そのままうつむいてえづい ている。  俺はそれが理解できない。それは三郎だろう?俺たちの三郎じゃないか。なぜそ れを吐き出せる?なぜそれを嫌悪できる?食葬というものがあると聞く。英雄の魂 をとりこむためにそれをするのだという。俺はそれをやっただけじゃないか。三郎 は俺になる。俺になって永遠に存在し続けるのだ。それをなぜ、そんな目で見る?  桂は刀を抜いて俺に切りかかってきたがかすりもしない。弱くなってしまった桂 に密かに失望した。 「貴様、それは俺に獣になれということか!」 「獣だと?」 「同士食いをするのは獣だけだ!」 「獣か!は、結構。ならば俺は既に半分以上獣だな」 「お前、三郎を食ったのか」 「食った」 「道を違えるぞ」 「そんなもん初めからありゃしねェ。ヅラァ、道があるなんてのは幻想なんだよ」 「貴様は畜生だ。いや、畜生にも劣る。貴様何のつもりだ。こんな、こんなことは 許されることではない!」  この男は何を憤っているのだ。政府に歯向かったときから、初めから許されては いなかっただろう。許されようとも思っていない。道がないなら作るまでだ。それ をこの男はわかっていないのだ。それで国を変えると豪語すること自体片腹痛い。 俺が全てだ。俺は俺のために生く。 「貴様はもう同士ではない」 「はじめからそのつもりだ」 「獣め」 「そうとも、俺は獣だ。何が悪い。それはお前も同じこと。お前も食っただろォが」 「俺の意思ではない!」  政府に逆らったときから獣として生きるしかなかったはずなのに、この男はまだ 人であろうとする。俺はそういうところが心底嫌いだった。それ以外もう道はない のにまだあがいている。惨めだ。惨めで仕方がないこの男を、はじめていとしいと 思った。 「俺は生きたいように生く。獣だからな。お前も、来るなら今のうちだぜェ?」  ずらりと刀を引き抜く。桂は殺気をみなぎらせて柄を握りなおすと俺をにらんだ。  残念。切りたいのはお前じゃねェんだよ。  そのまま三郎の骨壷を切った。ぱかりと綺麗に二分されたそれは中身を撒き散ら して畳の上に落ち着いた。桂は呆然とした顔でそれを見た。隙が生まれる。一瞬で 間合いをつめ、腹を思い切り蹴ってやった。奴の腹の中にあった三郎の骨ごと胃液 を吐いて崩れ落ちる。  これでいい。  こんな奴の一部になるのは三郎がかわいそうだ。  まだうずくまっている桂をそのままに外に出ると、空は黒雲で覆われていた。雷 鳴。雨のにおいがする。風鈴の音は聞こえない。また蝉がうるさく泣き叫んでいた。 悲鳴のようにも聞こえる。誰のだろう。一瞬考えをめぐらせてみるがすぐにどうで もよくなってやめた。  さあ、どこへゆこう。背後で桂が待て、だとかまあそんなことを叫んでいる。ど うでもいい。どうでもよすぎる。あいつは来ないだろう。そうやって一生惨めにも がき続けるがいい。  まずはねぐらだ。それから先は、眠ってから決めよう。あいつが来たせいであの 家を使えなくなってしまったことだけが残念だ。  黒い空を見て、腹の中で何かがかすかに息づいているのを感じた。