兄貴が事故にあってから音の無い場所に長く居られなくなった。誰もいない部室だとか
図書館の中だとか一人で部屋に居るときだとか静か過ぎる場所が苦手だった。それで、い
つも何かにとりつかれたようにCDだとかDVDだとかラジオだとかどんなにつまらない
ものでも音の出るものなら何でも、何をしているときでも鳴らしっぱなしにしていた。音
の無い場所は兄貴が眠るあの病室の静かで無機質で拒絶的な空気を連想するからなのだろ
う。その中には、銀時の影響で聞き始めたバンドのものもいくつか含まれていた。普段は
それほど意識することはないがふとした瞬間にそれを思い出すとひどく微妙な気分になる。
いつまでもあいつの痕が残っているようで悲しいのと悔しいのとよく分からないものが混
ざり合って胸の中から何かを引っ張り出してくる。ずっと、ずっと見ないようにしていた
ものを。


増大する青、そして 10



 潰されそうなくらい青く晴れた日だった。どの店もクリスマス商戦真っ只中のディスプ
レイを横目にふらふらとライブハウスへ向かっていると一人の男に声をかけられた。方言
なんだか分からないがおよそ日本語とは思えない言語を駆使するそいつは人懐こそうな笑
みを浮かべて俺の肩をたたいた。声がでかい。第一印象として馴れ馴れしいやつだと思っ
たが、一瞬遅れておよそ2週間前のイベントで同じステージに立ったやつだと気づいて慌
てて笑顔に似た表情を作った。打ち上げには行かなかったからそいつがどんな人間なのか
はよく分からないが、ドラムがやたらうまかったこととよく笑う奴だということは覚えて
いた。寒い、だとか天気がいい、だとかいう話をしているのだが、注意して聞いていない
と何を言っているか理解できなかった。あまりに寒くて俺は早く帰りたかった。男は右手
に花束を持っていて、しゃべりながら落ち着きなく大きなリアクションをするたびに白い
包装紙がゆらゆらとゆれた。花は赤いガーベラだった。花言葉は神秘。この男にあまり似
合いそうにないが女にでもやるのだろうか。そんなことをつらつら考えているといつの間
にか花束を凝視していたようで視線に気づいた彼に、お前も行くかと言われた。意味が分
からない。視線を元に戻すと男は、サングラスの向こうで疲れたように笑っていた。どこ
かで見た顔だと思った。
 銀時が、刺された。傷は重要な内臓は傷つけていないが失血がひどく、もう2日、眠っ
ている。
 現実感の薄い言葉で現実感の薄いことを言われてもすぐには信じられなかった。だって
二日前といったら俺と合う約束をしていた日で、その1週間前には俺に訳の分からないて
んぱり様で電話をしてきたじゃないか。でも、男の表情がそれを真実だと告げていた。ど
こかで見た表情だと思ったらそれは、よく俺や母や医者がよくする目覚めない人を待つ疲
れた表情だった。二日前、銀時からかかってきた無言電話が頭によぎった。いつまでたっ
ても何も言わないから腹が立って切ってしまったのだが、ひょっとしたらそのときすでに
銀時は意識がなかったのかもしれない。けたたましい電車の音だけが耳に残っている。あ
のとき、もし電話を切らなければ。いやそんなこと無理だったろうが、もし異変に気づい
ていれば。頭がぐらぐらする。いつの間にか握り締めていた拳は力を入れすぎていて関節
が白く浮かび上がっていた。
 タクを捕まえて、なんて贅沢ができる身分ではない俺たちは時刻表から10分ほど遅れ
て到着したバスに乗って病院へ向かった。予想以上にショックを受けた俺に気を使ってい
るのかもともとそういう性格なのか男はよくしゃべった。どちらにしても沈黙のうるさい
バスの中で、彼のそのおしゃべりで大分か救われた気がする。路線バスの中はくたびれた
おばさんと死にそうな爺婆が大半で、中空に向かってしゃべり続ける男と赤いガーベラの
花束だけが滑稽なほど浮いていた。遅遅として進まないバスに腹を立てても仕方がないの
に気ばかり焦る。俺が行ったところでどうにもならないけれどなんで、どうして、そうい
うことになったのか何の説明もされないでぽんと事実だけ渡されてもなんというか、すご
く、困る。だってなんだってそんな急に刺されなくてはならないんだ。恨みを買うとか、
あいつはそんな人間であっただろうか。そんなことは俺が知らないだけなのかもしれない
が、俺はあまりに銀時のことを知らなさ過ぎる。そういえば、俺も男も名乗っていなかっ
た。今更なことに気づいたが男のほうは気にしていない様子で昨日のバラエティ番組の司
会の女についてしきりに語っていた。
 結局互いに名乗らないまま1時間かかってようやくたどり着いた病室は貧乏フリーター
のくせにいっちょまえに個室だった。。それだけ、容態が悪いということだろう。銀時は
確かに眠っていた。
 本当にぴくりとも動かない。透明な液体の入った点滴が繋がれていて、ゆっくりとでは
あるが銀時の体の中に流れ込んでいた。バイトがあるとかで男は花だけ生けてさっさと帰
ってしまった。薄情なことだと思ったが眠り続ける友人の前でできることなんてそんなも
のだろう。
 そっと手に触れると微かだが確かに温かかった。まだ、生きている。病院に居るのだか
ら当たり前なのだろうけど、そんな当たり前のことに安堵した。既に十分なだけの輸血は
受けているだろうに気のせいかただでさえ白い顔が青白くなっている。枕元には大分古い
型の携帯が転がっていた。塗装もはげていてみすぼらしいったらありゃしない。眠り続け
る銀時に心の中だけで断って二つ折りの携帯を開けた。発信履歴の最初のところに俺の名
前があった。日付は二日前の、午後5時50分だった。
 ああ、馬鹿だな。お前は何て馬鹿な奴なんだろう。何で最後に俺に電話なんかしたんだ。
  そんなことしている時間があったら救急車でも呼べるだろうに。
 その日は結局、銀時が目覚めることはなかった。耐え切れずに逃げ出した病室で、ガー
ベラがゆれていた。

*

 銀時が刺されてから5日目の昼、その日唯一の講義が休講だったこともあって昼間から
銀時の病室へ向かった。これで4度目になるが、何度訪ねても彼は何一つ変わらない。最
初、そこに行ったときよりは幾分か顔色がよくなったような気がするが、それだけだ。病
室で時間をつぶしている間にメールやら着信で携帯が震えることは何度もあったが彼は、
それにも気づかずにずっと眠っている。銀時のバンドのメンバーだという男から彼が見つ
かった場所の事を聞かされた。彼も又聞きだと言っていたのだが、線路沿いの道の行き止
まりで、ありえない量の血液を流して倒れていた。傍にはギターが転がっていた。そう、
感情の見えない声で言った。それは待ち合わせの場所に程近い場所だった。もう少し発見
が遅ければ死ぬところだった。発見したのは若い女で、死体かと思ったらしい。男は、ア
コギはちゃんとあずかっているから、目が覚めたら伝えてくれと言い残して帰っていった。
病室にある花はオレンジ色のガーベラに変えられていた。銀時を刺した犯人はまだ捕まっ
ていない。
 なあ、銀時、お前約束を忘れてなんていなかったんだな。ちゃんとギターを背負って待
ち合わせ場所に向かっていたんだ。多分焦った青臭い顔をして走るように歩いていたから、
浮かれた顔してるから刺されたんだよ、全く仕方のない。
 まるで、馬鹿みたいじゃないか。俺ばかりが馬鹿みたいに腹を立てて、そんな間にお前
は勝手に死にそうになってるなんて。
 何もない病室ではすることもなく、いつまでたっても目覚めない銀時を眺めることくら
いしかできない。長時間座っているせいで正直尻が痛い。沈黙がうるさい。それでも、音
楽を聞く気にはなれなかった。窓の向こうは見た目だけは暖かそうな冬の太陽がやわらか
な日差しを降り注いでいた。この病室だけは世界から切り離されたように、時間の流れが
極端に遅かった。冷たい光は昨日までそこここにあったディスプレイの人形の部屋を連想
させた。完全に管理されて効きすぎた暖房のせいで少しだけ喉が渇いている。静かに落ち
る点滴と微かに動く銀時の胸だけが辛うじてここが現実の世界で夢などではないと知らせ
ている。静かな場所は俺が世界に拒絶されているようで、ただ一人で生きているように感
じられて嫌いだった。夢であればよかったのに。そうすれば5日前のあの日、俺はお前に
きっと言わなくてはならない一言があって、それを告げられていたのに。なんでお前はこ
んなところに居るんだ。何で眠っているんだ。
 ああ、だってお前、俺がお前のことを好きだったことを知っていたろう。俺も知ってい
たよ、お前が俺のことを好きだったことを。
 なあ、なんであのときお前は俺にキスされて逃げたんだ。
 それなのになぜ、あんな約束を覚えているんだ。
 訊きたいことは山ほどあるのに当の本人は眠っている。静か過ぎる空間は俺に余計なこ
とばかり考えさせる。銀時の手はさらりと乾いて温度を感じられなかった。じわりと手に
汗がにじむ。一瞬、人形のような手だと考えてぞっとした。
 このまま兄貴のように二度と目覚めなかったらどうしよう。
 失血がひどいからといって植物状態になるなんてことはあるのだろうか。俺は何も知ら
ない。分からないことでいっそう不安になる。
 なあ、銀時。俺はお前が好きなんだ。ライブハウスで会ったとき本当は声をかけられる
前にお前だと気づいていたよ。あまりの懐かしさに感情が焼ききれるかと思ったくらいだ。
電車の中で俺の手を握ろうとして結局やめたのを知っていたよ。病院で、兄貴に会ったと
き傷ついたような表情の奥に、安堵の影が揺らめいていたのも知っていたよ。お前はひど
いと思うかもしれないが、俺はそれに安心したんだ。それに、きっと、俺はお前が覚えて
いないような些細なことも覚えているよ。初めてあったとき、俺は笑っていただろう。無
防備に、子供のように笑っていただろう。
 銀時、頼むから目を覚ましてくれ。もう一度お前の声が聞きたい。
 好きなんだ。好き、なんだ。
 ほう、とそれまで無音に近かった病室に大きく息をつく音が響いた。銀時の手が動く。
「あ……」
 意識が戻ったのか。目の奥が熱い。ぐるぐるといろんな感情が頭の中をまわってわけが
分からなくなった。銀時の目が、ゆっくりと開いた。焦点が合わないのか何度も瞬きを繰
り返している。頬を、何かが伝っているのが分かった。ここは喜ぶべきところであって泣
く必要はないじゃないかとは思ったが、なんだか堪らない気持ちになってしばらく涙は止
まりそうになかった。
 お前なんで刺されてたんだとか、ここは病院だとか、お前のギターはメンバーの男が預
かっているとか、目が覚めてよかったとか、心配したとか、伝えるべきことも聞きたいこ
とも山ほどあって頭の中を回っているのにすぐに断片化してまともな言葉にならない。何
か言わなくては。でも、何を。ああそれより医者を呼ばなくては。思うだけでいつまでた
ってもナースコールに手が伸びなかった。
 ああ、よかった。本当によかった。お前まで居なくなるかと、ずっとそんなことばかり
を考えていたんだ。
 だって、好きなんだ。銀時、お前のことが好きなんだ。好きだ好きだ好きだ。
「好きだ」
 長い時間かかってようやく口にできたのはその一言だけだった。声を出してからはっと
する。なんで、よりにもよってこんなときに俺は何を言っているんだ。
 銀時はそれで始めて俺がここにいる事に気づいたのか、ぼんやりとした視線をこちらに
よこした。
「悪い、聞こえなかった、今、何て……?」
 惚けているのかそれとも俺の言葉が理解できなかったのかと思ったが、まだ意識がはっ
きりしていなくて本当に聞こえなかったのだろう。口を開いてみたもののもう一度、声に
出すのは躊躇われた。だって、言ったところでどうしようもないかもしれない。聞こえな
かったのなら、そのまま流してしまえばいいじゃないか。そうすれば、傷つかなくてすむ。
銀時が意識を取り戻したとたん、弱気になる俺がいた。でも、いいや、言っちまえ。1度
も2度も同じことだ。
 すきだ。
 口の動きだけで声は出さなかった。瞬きをするたびに涙が頬を伝った。意味が分かって
いるのかいないのか、銀時はずっと俺のほうを見ていた。何か言うだろうか。それともま
た眠ってしまうだろうか。そもそも、ここにいるのが俺だと分かっているのか。急に恥ず
かしくなって、でも、目線を外すことはできなかった。
 それから、銀時は笑った。ぼんやりとした顔で、幸せそうに、笑った。
 そして、



「俺も、好きだ」




End.




060617

元は「好きだ、」という邦画を観て思いついたんです。
恋愛ものは初めて(殆ど初めて)観たんですが、いい映画でした。
なんとなくフランス人の好きそうな(フランスの方に失礼)綺麗な空気感でした。
それにしても、長いものを書いたのは初めてだったのでそこここに矛盾が……出ないかと不安です(笑)
長々とお付き合いありがとうございました。