増大する青、そして 9


 晋介さんの見舞いに行ってから1週間バイト先からの集合時間の変更メール以外鳴かな
い携帯をじっと見つめていた。練習のときもバイトのときもしつこいぐらいに着信を確認
してまるきり不審人物だった。俺は一体何を期待しているのか。彼が渡してくれたのは番
号だけでアドレスじゃない。彼の使っている携帯は番号さえあればメールをやり取りでき
る会社のものだが残念ながら俺のはそこの会社のではない。それに、彼は俺の番号を知ら
ないのだから、彼から連絡など取りようがないのに。これじゃ前とまるきり同じだ。俺か
ら動いて傷つくのを恐れているんだ。用もないのに連絡して断られるのが怖いのだ。せっ
かく、せっかくまた土方に会えたというのに。
 高校のとき、あの緑のにおいのする高校にいたとき、俺は土方が好きだった。
 好きで好きで仕方がなかった。
 剣道場で竹刀を握る凛々しい顔も汗ばんでほんのり色づく肌も真剣に黒板を見つめる横
顔も友人たちとふざけあっては笑うその顔も晋介さんの事を話す憂いに満ちた顔も全部全
部好きだった。ひたりと強い目で見つめられる試合相手にも黒板に向かう教師にも笑顔を
向けられる彼の友人たちにも彼の肉親である晋介さんにすら嫉妬していた。俺だけ見ろ。
俺だけ見ていろ。そう言えたなら何かが少しでも変わっていただろうか。
 本当に、そう言えばよかったのだ。
 授業中土方が横目で俺を見ていることもどんなに部活が遅くなっても少し遠回りして河
原に来ていたことも知っていた。どんなつまらない話をしても笑ってくれたし俺の言った
言葉は俺が忘れたようなことでも覚えていたし一瞬でも、俺に体が触れるときにはどこか
かすかに緊張しているのも気づいていた。
 今なら分かる。と、いうのも都合のいい解釈でしかないかもしれないけど彼は、土方は、
俺のことが好きだったのではないだろうか。特殊な環境が作り出した一過性の想いだとし
ても多分、そうだ。結局俺もあいつも確証を求めてお互いの腹を探り合って何もできずに
手をこまねいてみているだけで傷つくのを恐れてばかりだった。二人ともが臆病だった。
 晋介さんが事故ったあの日、傷ついた儚げな笑顔に欲を覚えた。もっと傷つけてぐちゃ
ぐちゃにして泣かせたいと。ともすれば暴走しそうな感情を押えつけるために彼の顔を極
力見ないように歩いていたのを覚えている。空は金色に輝いて青空をのぞかせながら涙を
こぼしていた。土方のような空だった。
 なぜあのとき、土方にキスをされて俺は逃げてしまったんだろう。
 何度考えてもいまだに俺は俺の気持ちがよくわからなかった。
 一瞬だけ触れた熱はもうどこにも残っていない。
 薄いベッドに寝転がって今ではすっかりご無沙汰になっているアコギを見つめた。カバ
ーはかけたままでうっすらと埃が積もっていた。何てみすぼらしい、俺の燻ったままの想
いのようだと思った。そう、あのギターで初めて曲を作ったのだ。初心を忘れないように
と婆ァの家から出たときについでに持ってきていたのだが、結局何年も触らずにすっかり
粗大ゴミと化している。朧な記憶の中からそいつで作った曲のコードを思い浮かべてみて
も、結局採用されなかったものが殆どで細部まで思い出せないことに本当に、俺は音楽を
やっていていいのかと思った。
 だるい体を起こしてそのままの体勢で無理やりアコギをとろうとするとごとんと音を立
てて転がった。抗議するように中から調子の外れた音がばいーんと響く。仕方なしに拾い
上げてカバーを外すと錆びた金具がまず目にはいった。ごめんなこんな扱いで。試しに弦
を鳴らしてみると完全に硬化して緩みきった調子っぱずれの音が響いた。ピックを握って
一音ずつ確かめながらチューニングをしていく。これはさすがに張り替えたほうがいいか
もしれない、なんて思っていたら案の定、バチンと弦が切れて右手を切ってしまった。舌
打ちして何枚もティッシュを使って止血を試みるがだらだらと流れ続ける赤はなかなか止
まらなかった。何一つ思い通りにならない現実を如実に表しているようで、ずきずきと痛
むそこに溜息をついた。
 それでもこのままで居られないことは分かっていた。このままじっとしていても何も変
わらないしそれに放っておいたらせっかく繋がった糸がほどけてしまう。この4年間ずっ
と土方に焦がれていたわけではないしむしろ彼のことを思い出すことのほうが少なかった。
何人もの女と付き合ってきたしきっと彼も似たようなものだろう。それでもこの1週間彼
のことを考えない日はなかった。彼のことで頭が一杯でどうにもならなかった。それは過
去どれだけ土方に強く惹かれていたかを示しているのだろうか。そうではなくて今現在、
俺はあいつのことが好きなのだ。ぼんやりと笑う彼を本当の意味で笑わせたいのだ。例え
それが道化の役目だとしても。何とかして土方と連絡を取りたい。でも、口実もなしに電
話なんてできやしなかった。また呑もうな、と言われてはいたが冷静になって考えてみれ
ばそれは、社交辞令であろうことなんて明らかだ。それなのに、呑みに行こうなんて誘っ
ても迷惑だろうしそんな状態で行っても楽しくなんてないだろう。何か口実はないだろう
か。なんて考えてみても何一つ思い浮かばない。あいつは大学生で、俺はフリーターだ。
何一つ共通点はない。偶然でも何でもいいから接点が欲しい。どんな些細なことでも構わ
ない。
 ふと、河原での別れ際での言葉を思い出した。
 曲、出来たら聞かせろよ。
 土方は泣きそうな顔だったが笑っていた。彼は、その約束を覚えているだろうか。一過
性の感情だとしても、彼がそれを覚えているとしたら、そしたらひょっとして。
 慌てて携帯を手にとって番号を呼び出す。登録だけはとっくに済ませていた。着信を告
げる音はすぐに聞こえた。1回、2回、知らぬうちにその回数を数えていた。心のうちで、
10回コールして出なかったら一切連絡しないと決めた。5回、6回、まだ出ない。8回、
9回。
『もしもし』
「あ……」
『……銀時か?』
 繋がるとは思っていなかった。時計を見れば午後3時。学生の彼には講義か何かが入っ
ていておかしくない時間だ。それなのに、登録されてもいない番号を見て俺の名前を言い
当てられたことに俺を待っていてくれたように錯覚する。背後に誰か学生が演奏している
のだろう下手くそなフルートの音が聞こえた。クリアな土方の声が直接頭に響く。
「そう、俺。元気?」
『1週間しか経ってねぇのに体調崩してたまるかよ。何か用か』
「ああ……あのさ」
 柄にも無く緊張する。やっとのことで振り絞った声が震えていないかどうかだけが気に
なっていた。さっき傷つけた右手が痛むことを何故か急に意識した。
「来週の土曜、開いてる?」
『まあ……開いてるけど、つーか用件を言えよ』
「お前、約束、覚えてる?」
『約束?』
「そう、約束」
『ああ……』
「本当かよ」
『うるせぇよ』
「なあ、どうゆう約束か、言ってみ」
『曲、出来たんだろ』
「ああ」
『遅ぇよ、馬鹿』
「うん」
『何年経ったと思ってんだ』
「そうだね。でも、覚えててくれたんだ」
『それは、てめぇが……!まあ、いい。で、何なんだよ』
 電話の向こうで土方はどんな顔をしているだろうか。俺の貧困な想像力では何一つ思い
描けなかった。
「曲、出来たんだ。もし、もしよかったらお前に聴いて欲しいんだけど、土方」
『……わかった』
「え?」
『わかったっつんだよ、このボケ』
 で、いつだ。
 今度の土曜、夕方の6時に町田駅で。用件を伝え終えたら誰かに呼ばれたのか慌しく通
話は終わった。思ったよりもすんなりやりとりができて、変に気負っていた分拍子抜けし
てしまった。あまりに普通だったのでずっと、ずっと会いたかったのは俺だけだったのか
もしれないと思うが、それでも声に迷惑そうな響きが無いことに安堵する。電話の向こう
の彼は俺の記憶に残っているような寂しさの影を微塵も見出せないような声をしていた。
彼のことを思い出すとたいてい、河原で俺の隣にいる彼よりも教室の窓際の席で外を眺め
ている彼の、固く引き結ばれた口元が浮かび上がる。誰としゃべっていてもどれだけ笑っ
ていても心の底までは笑っていないのではないかとずっと思っていた。五月の柔らかな日
差しに照らされる唇に、今までどれだけの言葉が飲み込まれてきたのだろう。寂しげな口
元をした男だった。
 1週間後に備えてまず、どこかにあるはずのデモテープを探すことからはじめた。そい
つは適当に突っ込んだたくさんのテープの山の中に何の表示も無く埋もれていた。4年も
前のものだ、劣化しているかもしれない。危惧は現実とはならなかったもののたどたどし
い演奏に苦笑する。テレコで録音したせいで雑音が多いしところどころ音が割れている。
あの頃よりも硬くなった俺の指先は確実にこれよりも滑らかな音を出せるようになってい
た。長い曲だと思っていたのに2分くらいしかない、メロディーも何も無いシンプルなギ
ターだけの曲だった。曖昧だった記憶が次第にはっきりして、そのテープを作ったとき雨
が降っていたことや婆ァの家のかび臭い臭いまでつられて転がり出てきた。こいつを演奏
してどうしよう。何も考えてなかった。ただ土方の声が聞きたくて、ただ会いたくて、そ
れだけで連絡したのだから。でも、どうしようなんて思ってもするべき事は一つしかない。
どこか人の居ない公園で、静かで優しいこの曲を彼のために弾こう。それから、好きだと
言おう。受け入れられなくても、彼にとっては一過性の感情でしかなくても、過去ではな
くて、今、好きなのだと。

*

 1週間は瞬く間に過ぎた。バイトもバンドもいつも通りで特に忙しかったわけでもない
が久しぶりにアコギをいじっていたこともあるだろう。一番音楽が楽しかった頃のことを
思い出せたからかもしれない。約束の時間まであと1時間を切っていた。財布と携帯だけ
をコートのポケットに突っ込んで、アコギを背負って部屋を出た。既にあたりは真っ暗で、
昼間あれだけ好き勝手に吹いていた風は止んでいるのに辺りは深深と冷えていく。原チャ
のエンジンをかけようとして、止めた。俺は原チャでも土方は歩きだ。暮れの取締りが厳
しい時期に二人乗りして見せる勇気はさすがにない。というのもあったけど、土方と会う
時間を少しでも長くしたいという方が大きい。アパートを見上げるときらきらしたイルミ
ネーションが目に映る。25日を過ぎればただの残骸になる運命の、昨日までは鬱陶しか
ったそれも、浮き足立つ俺には悪くないと思えた。駅までは歩いて20分ばかりかかる。
 道行く人はみな浮かれて見えた。俺もそのうちの一人に見えるだろうし事実そのとおり
だ。俺も浮かれていた。どんなに小さな店舗にも赤と緑と白の飾り付けがなされていて華
やいでいた。帰りを急ぐ人たちの向こうには家族や恋人の顔が透けて見えるのだろう。寒
さのために体を縮めながらしかし、どこか幸せそうな顔をしていた。土方はどんな顔をし
てどんなことを考えながら俺を待っているのだろう。俺の意図が分からずに困惑した顔を
しているだろうか。それよりも寒さだけでなく表情を消して無感動に人ごみを眺めながら
白い息を吐いている姿が想像できた。どこか暖かい場所で待っていればいいのに多分、彼
は馬鹿正直に指定した待ち合わせ場所で凍えながら待っているんだろう。きっとその顔は
煩いほどのイルミネーションに照らされて一つの像のように美しい。あまり待たせても殴
られるだけだからという口実で、感情を素直に反映させて浮かれてもつれる足を叱咤しな
がら先を急いだ。背後には一つだけ足音が聞こえた。
 街灯の少ない線路脇の道を通る。日はとっくに暮れていて街灯は灯っているが切れかけ
なのかひどく暗い。土方を公園まで連れて行く道をシュミレーションした。最近見つけた
穴場で、街灯は多くて明るいのに人気は少ない。一人に向かってギターを弾いてみせるの
に格好の場所だった。ただ、駅からは少し離れている。そのときになって指が冷えて動か
ないなんてことがないように、どこかでカイロか温かい飲み物を買っておこうと思う。そ
こにたどり着くまでどんな話をしようか。沈黙でもよかった。でも、それよりはたくさん
話をしたい。土方の声を聞きたかった。高校の頃の話をしたいと思う。教室で、道場で、
河原で、土方がどんな顔をしてどんな話をしていたのか、それをどれだけ俺が覚えている
かを話したかった。土方は笑うだろうか、怒るだろうか、それとも気まずそうな顔をする
だろうか。最後の可能性だけはあまり考えたくないのだけど。通りがかった民家の玄関先
には赤いサンタの形をしたイルミネーションが光っていた。その表情は笑ってはいるがど
こか寂しげに見えた。
 そういえば、俺は1度として家族とクリスマスというものをしたことがなかった。田舎
に居たときだって家族と呼べる人間は耄碌したばあさんしか居なかったし婆ァの家に引き
取られた後はもちろんそんなもの俺のためにやってくれるはずはなかった。もうそのとき
には家族と過ごす、という選択肢が頭に浮かぶ歳ではなかったのだけど。願わくば、土方
とすごせたらいいと思う。ただの友人としてでもいい。少しでも彼と過ごす時間があれば。
 鉄子を拾った場所を通り過ぎて、駅までの最後の高架をくぐった。行き止まりの道だが
階段を上って少し歩けばすぐだ。早く土方に会いたい。約束の時間まであと20分くらい
だろう。最初の一段に足をかけた。
 突然、衝撃を感じた。
  次に、腰の辺りが熱くなった。
  一瞬遅れてそれは、痛みに変わる。
 何が起きたか分からなかった。とにかく痛くてそれを何とかしようと手を後ろに回すと
何か硬いものが手に当たった。あまり考えたくはないがぬるりとした感触が手を伝う。生
暖かい何かがコートの下を伝っていてどんどん冷えてゆく。
 手は、赤かった。なぜ赤いのか分からなかった。痛みで思考が麻痺しているのかもしれ
ない。そもそもなんで痛いんだ。あまりに突然の事態に混乱していた。衝撃があったから
には何かがぶつかったのだろうと思って俯いたまま後方に視線をやると、俺の物ではない
コートのすそが見えた。
 ずるりと、体の中から何かを抜かれた。痛みはそれでも消えることはなくて、かえって
体の中から何かが流れ出ていく速度が上がったように思う。それで、ようやく刺されたの
だとわかった。
 振り返ると、男が居た。どこかで見た顔だと思ったが思い出せなかった。
 感触から、多分刺さっていたのはナイフだろう。おいおい、さんざ恨みなんて買っては
いるが、刺されるまで恨まれる覚えはねぇ。せいぜいガキの頃万引きしてた駄菓子屋の婆
さんくらいなもんだろう。女取ったり取られたりなんて面倒なことはしてないし、だとし
たら何だ。
 貧相な顔をした若い男はひっきりなしに畜生、畜生と繰り返していた。刺されて怯えて
いるのはこっちなのに男のほうが殺される瞬間のような顔をしている。血まみれのナイフ
を握る手は震えていた。そうだ、こいつは鉄子を拾ったとき、横で彼女のかばんをあさっ
ていた男だ。アーミーコートに見覚えがあった。
「畜生、なめやがって」
 それから、止めるまもなく走っていってしまった。追いかけようとしてその姿がやけに
にじんで見えるのに気がついた。足が動かない。手も足もどんどん冷えていく。おいおい、
行くならせめて救急車を、と思って刺した本人がそんなもん呼ぶわけはないと一拍置いて
ようやく気づいた。混乱している。
 ああ、それにしても痛い。足に力が入らなくて少しでも楽な姿勢になろうとゆっくりと
アスファルトに膝をつく。その体勢から立ち上がれなくなってまずいと思ったがもう遅い。
息が荒い。痛い。体を起こしているのが辛くなってそのまま地面にうつぶせた。アスファ
ルトは冷え切って冷たかったがすぐにどうでもよくなった。目を閉じれば二度と開けられ
なくなる気がしてむりやりこじ開ける。
 そうだ、救急車。救急車って何番だっけ。言うことを聞かない手を無理やり動かして携
帯を取り出しては見たものの番号が分からない。ああ、それより土方に連絡を。ちょっと、
行けなくなるかもしれないと、怒られるかもしれないが言わなくてはならない。救急車の
ほうがいいだろうか。いや土方に。迷ってるうちに指が動かなくなってきた。焦っていて
救急ではなく履歴を呼び出してしまったようで、でも結局そのまま発信する。ぼんやりと
した視界に映ったのは土方、という名前だった。微かにコール音がする。でも、それ以上
携帯を持っていられなかった。電車が俺の横を通り過ぎていった。でかい音に呼応するよ
うに腰の傷が痛む。傷がどれだけの深さなのかなんて刺されたことなんてないから検討も
つかない。
 ああもう俺駄目かもしれない。
 ふとそんなことを思って目を閉じると、冷たい水が頬を伝っているのが分かった。体の
どこもかしこも冷たいのに、傷の辺りと目の奥だけがやたらと熱かった。
 土方、土方、俺お前に会いたかったよ。
 なあ俺お前のことが好きなんだ。
 意識がなくなる一瞬前、俺の名前を呼ぶ土方の声が聞こえたような気がした。