「ただいま」
居間からお帰り、と声が返ってくる。ちょっと覗くと眼帯をしていないほうの目
がやさしく細められていて笑っているのがわかった。
増大する青、そして 2
俺には一人兄貴がいた。居たではなくて現在進行形でいるんだがその兄貴は一度
結婚してこの家を出て行ってまた戻ってきた。離婚したとか別居中とかではなく事
故で、その人が亡くなってしまったからだ。婿養子だった兄貴は姓も土方に戻して
今は落ち着くまでこの家に居る。葬式が終わって全てが終わるまで兄貴は向こうの
家で放心したように泣くことがよくあって大変だったらしいが今回のことは向こう
の家が厄介者の兄貴を体よく追い出したようでどうも気に入らない。俺はその義姉
なる人をあまりよく知らなかったが黒髪の綺麗な美人だったことを辛うじて覚えて
いた。ずっと、ずっと好きな人だったそうだ。ずっとすきだったんだ、寂しそうに
笑いながら兄貴は話してくれた。今でも好きなのなんて訊けなかった。想いつづけ
て死んでしまったその人のもとから帰ってきてから兄貴は前よりずっと笑うように
なった。無理しているのかと思ったがどうやらそうでなはないらしいことに安心し
たが、その奥にある虚ろな明るさが怖かった。
「兄貴、腹減った」
「あー……母さん帰ってくるまで時間あるし、何か作るか」
「何かって何」
そうだな、と言って兄貴は左目の眼帯を触る。いつの間にか癖になってしまった
らしい。両目とも健康なはずなのに何故か四六時中眼帯をつけているその訳を知り
たかったが訊いてしまったら何かが終わってしまう気がしてずっと訊けないでいる。
冷蔵庫の中身はほとんど空だ。確かジャガイモがあったから肉じゃがにするか、い
いなそれ、手伝うよ、じゃあそれ洗って……。よく土を落としたジャガイモを端か
らするすると皮をむいてゆく。にんじんを切って、たまねぎを切って、こんにゃく
を開けて、肉を出して。材料を次々と飲み込んでゆく鍋からはじゅあじゅあといい
音が聞こえる。ああ、やっぱり兄貴だ。昔から兄貴は器用で仕事で帰ってくるのが
遅い母に代わって何か作ってくれることが多かった。そこは変わってなくて兄貴が
この家に戻ってきたときにひどく安心した覚えがある。兄貴の横顔は俺から見ても
かっこよくてその横顔が半分になっても何だかほっとする。台所の柱にもたれかか
って見ていると晩飯の用意が終わるまで30分近くかかるから、といって兄貴はそ
の辺にあった林檎をやっぱりするする剥いて渡してくれた。切って皿の上に乗せて
しまってからウサギにすればよかったな、と笑う。
「勘弁しろよ」
本気で嫌がってみせるとそーかよと喉の奥を震わせて笑った。
ただいまー、玄関から疲れた母の声がする。大きなビニル袋を2つも抱えて重そ
うだ。
『おかえり』
兄貴と声がかぶる。それを聞いて母は楽しそうに笑った。
*
兄貴の肉じゃがは旨かった。ほこほこのジャガイモには程よく味がしみていてい
くら食べても飽きがこない。多分母の作るものよりも旨いんじゃないかと思う。部
活の疲れもあって大量の肉じゃがは殆ど俺が平らげてご飯を3杯お代わりした。成
長期がとっくに過ぎたせいもあるだろうが兄貴は母と同じくらいしか食べなかった。
だからそんなに細いんだ、と思うことにした。夕食後、皿洗いを手伝いながら聞き
覚えのあるメロディが横から聞こえてきて驚く。思わず兄貴を見ると目元が少し笑
ってるように見えた。
「その曲、知ってんの」
「ああ、まあな」
洗い終わった皿をざぶざぶ流しながら続きを歌う。銀時は兄貴がこの曲を知って
いるのを知っていて練習しているのかもしれないと思った。ちく、と胸が痛む。俺
が嫉妬したところであいつは何も知らないだろうしどうにもならないとはわかって
いてもどうしようもなかった。
「それ、銀時が弾いてた、最近」
「そっか」
「ばりばりの剣道部だったやつがさ、俺はギターで飯を食うとか言ってずっとそれ
弾いてんだ、へったくそなんだけど。何だっけ、Plastic Tlee?」
「そうそう、俺CD持ってる。聴くか」
「貸して。そんで兄貴のこと訊くんだ、元気かって」
「そう、変なやつだな。銀時元気」
「前と同じだよ。なんかでも前より死んだ魚の目率が上がってる気がする、なんつ
ーか死んだ、っつーか腐ったって感じ」
「はは」
また兄貴は笑う。反射みたいに。それを悲しいとは思ったが俺にはどうにもでき
ないことも知っていた。ぶれてしまった兄貴のどこかにある傷は忘れることも治す
こともできずにまだ痛んでいるんだろう。時間が経ってもこの先もずっとこうかも
しれないと思うとやっぱり俺は悲しくて顔に出ないようにするのに必死だった。
「銀時、さ」
「ん?」
「兄貴に会いたいって。会ってやってくれよ」
うん、うん、と兄貴は曖昧に笑いながらうなずいた。
どうしようもなく胸が痛んだがそれで兄貴が普通に笑うようになればいい、普通
って何だ、とは思うけれども。
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