次の日久しぶりに朝焼けを見た。
 べったりと体に纏わりつく重い湿気の中を走りながら空に目をやる。
 筋状に広がった雲が真っ赤に染まって世界の終わりのような色をしていた。
 朝焼けの日は雨だとか不吉だとか言う人もいるが俺は何よりもその景色を美しく
思った。

      
増大する青、そして 3


 
 授業中の銀時はいつにも増して死んだ魚のような目をしている。興味がないのか
ペンを回して遊んだり突っ伏して寝ていたりと全くやる気がない。一応優等生とし
て通っている自分が可愛い俺はまじめに板書を写しては時折あくびをかみ殺す。退
屈としか言いようのない授業など眠ってしまえればそれが一番楽だが先生の目を盗
んで眠れるほど器用じゃない。始めからそういうキャラで通ってる銀時が少しうら
やましくもあった。どのみちここはそこまでレベルの高い学校ではないのだ。内申
点を気にしても推薦にしたってあまりいいところは望めやしない。それよりは内職
や部活動にいそしんでいたほうが有意義なんじゃないかとすら思う。急にがたんと
音がして振り向くと銀時がトイレと言い残して席を立ったところだった。終業20
分前ギターと荷物を持って。教師は既に諦めているのか呼び止めるどころか目線を
動かすこともしない。途中で帰ってしまった銀時よりもそれを無視している教師の
行動に限りなく呆れるしかなかった。


*


「おい」
 放課後部活が中止になったおかげで何時もより早く帰路についた俺は何時もの水
門で銀時を見つけた。朝焼けは雨だというが生憎と今日は晴れだ。また何か弾いて
いるのか何時もと違うメロディ(とも言いがたいが)が聞こえてくる。終業から1
時間ほど経っているがその間そこでずっと弾いていたのか痛そうに手を振っていた。
「何」
「これ、書けってさ」
 銀時は振っていた手を止めて差し出したものを受け取った。渡したものは進路希
望用紙。怠慢教師が銀時に渡すようにと俺に託したものだった。どうせこいつに渡
したところでまじめに書くとは思えないがこいつが出すか否かは別として俺の役目
は果たした。予想通り奴は適当にかばんの中に紙を突っ込むとまたギターを弾き始
めた。別に出さなくても何の問題もないだろうなぜなら、2年の今なんてどうせ皆
ろくなことを書きはしないしその希望も後で変えさせられたりするからだ。どうせ
面接するのだからそのときに言えば済むことだ。こいつのことだから面接に素直に
行くとは思えないが。いつも通り銀時の横に座ってギターを聴く。また俺の知らな
い曲なのだろうか。短いフレーズを何度も何度も繰り返して弾いている。今日は何
も聴いていないし開いていないからもしかしたらオリジナルなのかもしれない。
「それ、さ」
「うん、」
「お前の曲?」
 銀時は答えなかった。だけど多分答えないことで返事になっていると思う。
「いいな、それ」
「そう?」
 気のない風に答えていても横顔の目元が少し緩んでいるし声が少し上ずっていた。
馬鹿め。思わず噴出すと憮然とした表情で向こうを向いてしまった。せっかく褒め
たのに何が気に入らないのかいーよもうなんて拗ねている。体中に暖かい何かが満
ちてくるのがわかった。拗ねてみせてもどうせフリなのだし放っておけば勝手に直
る。そしてやっぱりしばらくするとまたギターで同じフレーズを弾き始めるのだか
らお前俺に行動完全読まれてるよと言いはしなかったが面白くて仕方がなかった。
「お前さ、進路、どうすんの」
 しんろ、急に訊かれても頭の中で変換がうまくいかなくて変に間が開いてしまっ
た。それに俺だって他の奴らのことなんてどうこういえなくてろくな進路を考えて
ない。何となく首都圏の大学には行きたいけど、人文で、なんて田舎者丸出しの答
えを言うと銀時は自分で訊いたにもかかわらずそれきり黙ってしまった。ギターを
放り出して寝転がるとあーともうーともつかない声を出して目を閉じた。睫毛が長
い。それに肌の色も白い。目を閉じているのに何となく見ていることを悟られそう
であわてて言葉を繋ぐ。
「お前は」
「俺、なぁ。どうすっかなぁ」
「訊いといてそれは無ぇだろ」
「専門かな。お前ほど頭よくないしあんま選べネェから……金も無ぇし」
「何の」
「理容とか?」
 何で疑問系なんだ何で。そこは突っ込まずにじゃあお前ストパーかけ放題じゃね
ーの、憧れのさらさらヘアーになれるぜなんて茶化してやった。大学は行かない、
行けない。理容学校はここにもあるし当然ながらこいつとの縁もここまでになって
しまうのかと思うと寂しい。寂しいどころじゃない。まだ先のことなのに心臓が苦
しくなって、俺思春期、なんて全然別のことを考えた。そりゃねぇよ、ひでーなお
前、銀時は笑いながら腹筋だけで起き上がると俺に手の指を見せた。何のことはな
い普通の手だ。骨ばって大きな手には俺と同じたこがある。何度やっても勝てなく
て悔しくてやけになって練習に励んでそれでもこいつがやめるまで一度も勝ったこ
とはなかった。今やっても多分勝てないだろう。その強さは憧れでもあった。だか
らいきなりやめると言い出したときには愕然としたし意味もわからなかったしいま
だその理由も納得できない。校外でなにかごたごたに巻き込まれたのがその理由の
一端だったろうが本当に巻き込まれただけでどこも怪我してないし怪我させたわけ
でもないし学校側も銀時には何も処分を下さなかった。俺が知らなかっただけかも
しれないけど。それなのにあれだけ打ち込んでいた剣道をあっさりやめてふらふら
したりギターを弾いたりしている。銀時はそのときのことについて何も言わない。
多分訊いても少し寂しそうに笑って何となく、だよ、の一言で終わらせて答えてく
れないだろう。銀時のそれは俺にとっては勝ち逃げされたに等しいのだがいつもの
ノリで絡むことはできない。それは彼にとって現在進行形の傷だということがわか
っているからであり、うかつにそれに触れて痛みをよみがえらせることはしたくは
なかった。
「これ、さ」
 銀時が両手の指先をすり合わせたあと右手で左手の人差し指の辺りをさしている
のを見てはっと現実に戻る。ぼーっとしていたのは一瞬だったようで銀時は変な顔
はしなかった。
「何」
「触ってみ」
 人差し指と、指先。言われたとおり触ると両の手の指先とそこだけ変に皮膚が硬
かった。剣道たことは全然違う硬さだ。それより銀時の手に触れていると妙に感動
してしまって顔が熱い。慌てて手を離したものの赤くなっていやしないか、ばれて
変な顔されやしないかと気が気ではない。
「ずーっとギター弾いてるとさ、最初は慣れてないからすぐ手が痛くなるんだけど、
それでもずーっと弾いてると、今度は手の皮が硬くなって痛くなくなる。俺はまだ
だけどさ。剣道やめて何となくギター弾いて、どんどん手の皮が硬くなって、たこ
みたいになって、ああ、なに言ってるんだかわかんねぇな、なんか、剣道以外にも
打ちこめるもんがあるんだって、思った」
 どう返していいか分からなくてそっかと言ったきり何も言えなくなった。話すべ
きことが見つからない。それは銀時も同じようでやっぱり黙っていて昨日よりは水
の引いた川がごうごう流れる音しかしなかった。
「お兄さんさ、」
「うん、兄貴が」
「最近、どう」
 それ昨日も聞いただろ、笑って返しても心臓が苦しい。銀時が俺と一緒に居るの
はそれを訊くためだけなんじゃないだろうか。話題に困ったから、なんて感じじゃ
ない。多分、銀時は兄貴のことが。なんとなくわかってはいたが確信してしまうと
どうしようもない。雨、は外れたが不吉の予兆というのは当たってしまった。それ
は悪いことではない。悪いことではないが苦しくて仕方がない。
「土方?」
「あ、いや」
 銀時にとってはいいことかもしれない。多分、絶対といってもいい、趣味だって
合うだろうし、でも。
  銀時と目を合わせるのが辛い。そんなふうに顔を覗き込まないで欲しい。今俺は
ひどい顔をしているだろうから。
「兄貴、お前に会いたがってたよ」
「何、何で、」
「夢の島、弾いてたって言ったら、聴きたいって」
 ショックを受けていても口は勝手に言葉を並べ始める。どこか遠い世界のことを
垣間見ているかのように現実感がない。ひどく音が遠いと思った。300メートル
上空で俺、が反論する。嘘だ、それは全部、俺が言ったことじゃないか。それに会
いたいのも聴きたいのも俺だ。でもそれで銀時が幸せならそれが一番いい。それに
相手が男だろうと何だろうと兄貴が元に戻るなら俺は何でもすると決めたんだ。決
めてしまったんだ。
「会って、会ってやってくれよ。俺から時間は言っとくから、金曜の5時に水門と
か、どう」
「なら、いいよ」
 どんな顔をしているのか気になったが目線は銀時の靴のつま先の汚れから離れな
かった。声色から彼の感情を判断する余裕すらない。何だ、俺、一杯一杯だ。
  じゃ、それで。言い残してまた走って、逃げるようにして帰った。
 最後まで銀時の顔は見れなかった。