台所から兄貴の鼻歌が聞こえる。
 あれは銀時の曲だ。
 家中にあのたどたどしいギターの音が聞こえたような気がした。
  
  
増大する青、そして 4


 窓から見える空には星一つなくこの町全体が闇に飲み込まれているようだと思う。
風がないせいで湿気がたまりにたまって真綿でじわじわと首を絞められるようによう
に少しずつ酸素を奪われているような気がする。母さんはまだ帰ってこない。今日も
また残業か何かでひーひー言ってるんだろう。週末だからどこかで飲んでいるのかも
しれないと思ったが何の連絡もないから多分違う。共働きとはいえ働きすぎじゃない
だろうか。相変わらず兄貴は銀時の曲を鼻歌で歌いながら台所でざぶざぶと何かを洗
っていた。よほど気に入ったのか何度も同じフレーズばかりを繰り返すから俺まで覚
えてしまった。前に訊いたときよりもかなり先まで進んでいる。多分ボーカルのない
ギターだけの曲なのだろう、耳に優しい音程が心地いい。まな板の上にはキャベツ、
人参、玉葱、茄子、豚肉が乱雑に並べられていて晩飯のことを考えるとげんきんな腹
がぎゅうと抗議を訴えた。
「それ」
「ん?」
「銀時の曲?」
「そう」
「気に入った?」
「ああ。いい曲だな」
 しゃべりながらもキャベツを軽く水洗いして芯のところに切れ目を入れてから四分
の一程を大胆に切り分けてざしゅざしゅ景気よく切り刻んでゆく。次々と野菜を刻ん
でゆくその横顔には何の感情も浮かんでいない。茶というよりは黒に近い目が兄貴の
うつろを表しているようで何かをしゃべっていないと引きずり込まれそうで怖かった。
「銀時、どうだった?」
「うん?」
「水門、行ったんだろ」
「ああ……」
 兄貴は一端包丁を置いてフライパンを火にかけた。油を引いて材料を次々と放り込
んでゆく。野菜を炒める景気のいい音が台所に響く。兄貴は曖昧に返事をしてそれか
ら何か考えているのか何もしゃべらなくなった。銀時のことなんて兄貴にとって本当
はどうでもいいのかもしれない。でも、俺はそれを訊かずには居られなかった。兄貴
を見ているのが辛くて目線を上に移すと網戸はしっかり閉じたはずなのにどこからか
迷い込んできた小さな蛾が蛍光灯に集っているのが見えた。こいつらは気づかないう
ちに入り込んでは出口を見つけ出せずにいつの間にか部屋の隅で死んでいく。どうせ
死んでしまうのだから初めから入らなければいいのに本能には逆らえないのかいつま
でも同じことを繰り返す。俺は理性があるのにもしかしたら(もしかしないでも)俺
のしていることはこいつらと大差ないのかもしれない。傷つくのが分かりきっている
のだから初めから近づかなければいいのにそれができないでいる。本当に学習しない
俺が嫌で嫌で仕方なかった。でも結局、じれて一度だけ兄貴を促してみる。兄貴の目
はここではなくてどこか遠くを見ているように透明でガラス玉のような光をたたえて
いた。一瞬、一瞬だけれども湿気のせいか世界と兄貴の間に薄い膜が光っているよう
に見えた。
「別に、普通だったよ。学校の話して、夢の島弾いてくれて、銀時の曲聴いて、それ
だけ。まだ全部はできてないって言ってたな。そうだ、お前は元気かって訊いてきた。
いつも会ってるのにな。変な奴だな、銀時って」
 そっか、と曖昧に答えたきり何もいえなくなった。しつこく訊いては俺の事がばれ
るかもしれなくてそれが怖くて無関心を装うのに精一杯だった(もう遅いかもしれな
い)。一瞬でも銀時が俺のことに関心を持ってくれたようでそれに浮かれそうになっ
たがあいつと兄貴に共通する話題なんてそれくらいかもしれないと思いなおして単純
には喜べなかった。
 兄貴と一緒にいるとき銀時はどんな顔をして話しをするのだろう。俺といるときみ
たいに途切れがちに話すのだろうか、それとも浮かれたように笑いながら話すのだろ
うか。多分後者だろうがそれが容易に想像できて何だか嫌だと思う俺が汚い生き物に
思えて嫌だった。晩飯できたぞ、兄貴は次々と皿を並べてゆく。銀時にあまり関心を
持っていない兄貴を自分勝手にも恨めしく思った。


*


 廊下の向こうで銀時が桂とじゃれながら歩いてくる。例によって今日も朝からしと
しと雨が止まない。いっそざーっと降って終わりになればいいのにべったりとした湿
気が一日中あたりに立ち込めて誰もがうんざりとしていた。スカートを短く切り詰め
た女子でもいれば多少は華やぐのに視界を占める大半は暑苦しい学ランで鬱陶しいこ
とこの上ない。ヅラお前そのヅラとれよ、ヅラじゃない桂だそれにこれはヅラじゃな
い地毛だ、いーやお前それは確実にヅラだろつーか熱いんだよ鬱陶しいんだよてめー
のロン毛見るだけで湿度が3割増だ、言わせてもらうがお前のその暴走しきった天パ
のほうが何倍も鬱陶しいぞ。湿気は苛つきを倍増させるのか大声で漫才しながらあち
こちぶつかるから周りの生徒は誰もあいつらに近づかない。何割かはあいつらに障る
と馬鹿がうつると思っているんだろう哀れみの目さえ向けている。10メートル、9
メートル、8メートル、俺はあいつに気づいているのに銀時は桂とのやり取りに夢中
で俺に気づいていない。6メートル、5メートル、気づけ、気づけ、気づけ。
「あ――土方」
「おう」
 桂を放り投げて(本当に放り投げて)銀時は俺に声をかけた。俺を見かけたとたん
さっきまで笑っていた顔がすっと真顔に戻る。奴の口から俺の名前が出ただけでずう
ずうしい心臓がことりと音を立てた。向こうでは出しっぱなしの掃除用具に突っ込ん
だ桂が派手な音を立ててもがいている。何か用待ってたんだろ、ちょっとな、立ち直
った桂は後ろで銀時に復讐したそうな顔をしていたがちょっと変な顔をして教室に戻
っていった。
 振り返らずに廊下を歩く。午後の始業ベルが鳴る。4現は確か数学だったが志村あ
たりにノートさえ写してもらえればいいので1回くらいどうでもいい。先生に見つか
るのが一番面倒なのでとりあえず屋上のほうへ。踊り場の鏡を見るとやる気のない銀
時の間抜けな顔が映っていた。ばたばたと授業の準備にせわしない空気の中に俺と銀
時の足音だけがゆっくりと響く。階段の壁には頭の悪い落書きが所狭しと書き込まれ
ていてどうしようもなく汚い。こんな学校では愛校心も育たないだろう。中には桂や
銀時の字らしきものもあった。糖分上等なんじゃそりゃ。こんなもの書くのは過去に
も未来にも多分嫌絶対一人しかいない。雨なのでさすがに外には出られないので扉の
前で足を止めた。雑多に積み上げられた使えない机たちが処分を待ってほこりをかぶ
っている。くすんで汚い小さな窓からぼんやりと光が差し込んでいるだけのそこは薄
暗くて湿っぽい。掃除当番は何をしていたんだ。って確かここは俺のクラスの担当で
しかも今は銀時のいる班だから仕方ないといえば仕方ない。それにこんなところ掃除
したところで何の意味もない。適当な段に腰掛けると手にざらりと砂と埃の混じった
感触がして制服が白くならないか心配だった。銀時は俺より数段低いところで立った
まま背を壁に預けて俺を見上げた。俺も立っていればよかったと今更ながら後悔する。
「金曜、ありがとな」
「ああ、別に」
「兄貴喜んでた」
 口からでまかせを並べ立てながら銀時の様子を観察する。相変わらずはね放題の髪
は部活をやっていたときより伸びていて、薄暗いところで俯いているせいで何の表情
も読み取れなかった。
「お兄さん―――晋介さん、さ」
「兄貴、が」
 銀時が兄貴の名前を言いなおした瞬間頭に上っていた血が音を立てて引いていくの
が分かった。急にあらゆる神経が過敏になった。暗いはずの階段の段の隅々まではっ
きりと目に見えて扉の向こうからする雨の音さえ聞こえてくる。俺が望んだ展開にな
っているのに体の奥がざわついているのが分かった。本当は叫びたいのに何一つ声に
ならない。
俺だ、俺なんだ、お前を好きなのは俺なんだ。好きなんだ、好き、なんだ。
 思わず止めていた息をゆっくりと吐き出すと周りに沈黙が戻ってきた。雨音が遠く
なる。銀時は俯いたままだから俺のことは見えていないだろう。そのことに安心はす
るものの寂しくもあった。
「あー……やっぱ何でもない」
「何だよそれ、言えよ」
「何でもねぇって」
「そうかよ」
 本当は問い詰めてでも訊きたかった。お前兄貴のことどう思ってるのどうしたいの
この前何したの、それを話す銀時がどんな表情をするのかどんな声で語るのか知りた
かった。それが俺を傷つけるとしても。なのに言葉はのどまで出掛かっているのに舌
に乗らずに消えてしまう。俺はどこまでも臆病だ。今まで、女相手にこんな風になっ
たことはなかったというのに。
「また会ったら」
「ああ……」
「今度は映画にでも行けよ」
 いや、ちょっと考えるように言葉を切ってから、金曜日また同じ時間に水門で、と
続けた。馬鹿だな、デートといえば映画なのに。だがもしかしたら銀時は自分で作っ
た曲を兄貴に聞かせたいのかもしれないという想像に落ち着かない気分になる。だっ
てあの曲は本当なら俺が馬鹿なことをしなければ俺だけが知っている俺だけの銀時の
顔だったのに。
 5現終了のチャイムが鳴った。じゃ、伝えておく。言い残して俺はさっさと教室に
戻った。どうせ後で顔をあわせなくてはならないのに何となく今この場でどんな顔を
していればいいかわからなくなったからだ。要はまた逃げたのだ。逃げてばかりいて
も現状は何も変わらないとは分かっていても、それ以外の方法など思いつかなかった。
 扉の隙間から見える屋上には相変わらず細かい雨が降り続いていた。