知らせは突然来た。 それは誰も何も想像できないような五月晴れの日だった。 あの人は最後の顔までぼんやり笑っているように見えた。 増大する青、そして 5 どんよりとした空が続いていたある日、全てが嘘だったかのようにすっきりと晴れ 渡った青が一面に広がっていた。これぞ五月晴れだ。気温すら真夏日だったが強い風 が始終吹いてそこまで暑くは感じられない。木陰で昼寝をすれば本当に気持ちいいだ ろう。実行はしなかったが。死にそうな教師が呪文のような声でもごもごと何か言っ ているのを必死で聞き取ってもどのみち教科書の内容を復唱しているだけだ。それよ りは勉強で削れてしまった睡眠を埋めていたほうがよほど健康的だろう。最近では俺 も教師に何か期待するのは諦めてつまらない授業は寝ることにしている。幸い今日は 昼寝には絶好の気候だ。既に机に突っ伏して気持ちよく眠っている銀時を横目で見な がら俺も軽く目を閉じてうとうとした。風に乗って体育教師の号令が切れ切れに聞こ えてくる。木陰の誘惑に耐えながらまったくいい日だと思った。 終業後いつも通り銀時は速攻で帰ってしまった。そういえば今日は金曜だ。また兄 貴と会う約束をしているのだろう。俺はといえば掃除もそこそこに部活へと急ぐ。顧 問は掃除するくらいなら練習してろと公言する訳の分からない人でやたら厳しいが俺 は嫌いじゃない。部室はまだ人はまばらで入り口のほうでは一年がもたもたと着替え ているのが見えた。まだ鬼顧問が来るまで時間はある。その辺の壁に寄りかかりなが ら自分にダメージが来ると分かっていても今日の二人の様子を想像してしまった。河 原ではなく台所で銀時の曲を口ずさんでいる兄貴の様子を思い出してしまって胃が重 い。見る限り兄貴と銀時はうまくいってるようだ。兄貴から何か言ってくることはな いが訊けば話してくれたしそのときの兄貴はちゃんと楽しそうだった。最後は必ずあ の曲、いい曲だなと褒めるのでその瞬間だけすっと体のどこかが冷えるのだけど。ふ とあの曲は一体どこまでできているのだろうかと疑問に思う。兄貴の鼻歌は俺が聞い たときよりも大分先に進んでいた。それにそもそもどうして、あいつは曲をつくろう と思ったのだろう。既に出来上がっている曲すらまともに弾けていないのに。 剣道場の中は明かりがついているものの外が晴れているためにそれだけで薄暗く感 じる。埃と汗と防具の臭いの入り混じった空気が練り上げられてそこはまるで異空間 だ。何故かサングラスをはずしたがらない顧問の熱気が鬱陶しいほど熱い。急に土方、 と嗄れ声で呼ばれて返事をしながら勢いよく立つ。ここでだらだらしようものなら後 で鬼のしごきが待っているのだ。防具を身につけて相手の1年の前に立つ。それだけ でびびっているのが見て取れてこいつはきっと教室で苛められるタイプだとひそかに 思った。礼、竹刀を構えて試合開始。回りの音が遠くなって集中力が高まっていくの が分かる。銀時は集中するとかえって音がよく聞こえるといっていたがそれは本当だ ろうか。正直学校に来続ける意味はわからないが剣道は楽しいと思える。試合の最中 は余計なことを考えなくていいしもちろん勝てば嬉しい。とはいえ相手にもよるわけ だが。何度か打ち込んでは来るものの完全に俺に飲まれていて腰が引けている。あっ という間に一本をとって、礼。次、と号令がかかって隅のほうへ移動を始めたとき、 ばたばたと慌しい足音がして誰かが道場へ入ってきたのが分かった。担任だ。よほど 急いでいたのかうっかり土足で入ってしまって顧問に怒鳴られている。ご愁傷様だ。 そうのんきに思ったのだがそれは、すぐに担任の一声によってかき消されてしまった。 土方君、君、今すぐ帰りなさい。 今病院から連絡があって、お兄さんが事故にあわれたそうだ。 病院はどこだとかタクシーで行けだとか担任は騒いでいたが実際目の前で見たわけ でもなし妙に現実感が薄かった。それでも急いで着替えて病院へ向かう。それで兄貴 がどうなったかとか何で事故になんかあったんだとか訊きたいことは数え切れないほ どあったものの何も情報が入ってこなくて不安だった。とりあえずタクシーの中で思 ったことは、銀時はどうなったんだということだけだった。 * 事故は金曜の午後4時40分、水門近くの橋の上でおきた。はねた張本人によると ふらふらと反対側を歩いていた兄貴が突然何かを見つけたように車のほうへ向かって きたのだという。兄貴は数メートルとんで地面にたたきつけられた。半泣きになりな がら弁解もせずただただ謝り続ける様子にそれは真実だろうと思った。あまりにショ ックが大きくて憎むとかなじるとかそういうこともできなかった。兄貴はクリーム色 の病室の硬いベッドの上で眠っていた。打撲、骨折、擦り傷と体のあちこちに巻かれ た包帯が痛々しい。医者は頭を打っていて植物状態も覚悟したほうがいいと話した。 病室に置かれたソファの上で、母と銀時が放心したような顔で兄貴を見つめていた。 俺はかろうじて立ってはいたが多分同じような顔をしていたと思う。母の目は真っ赤 だった。しばらく、誰も何もいえなかった。言うべき言葉が見つからなかった。兄貴 の額には大きなガーゼが貼ってあって綺麗な顔が台無しだ。もしかしたら兄貴はずっ と死にたかったのかもしれないと考えて、すぐにその考えを打ち消した。そんなこと ありえない違う、あってほしくない。でも、その顔はかすかに笑っているようにも見 えた。 * 帰り際、母は病院に残るから二人ともタクシーで帰りなさいと言ってくれたが病院 から家までそう遠くないこともあって歩いて帰ることにした。外は相変わらず快晴で 俺はそれに腹が立って仕方がなかった。太陽を憎んでも仕方がないのにこのもやもや をぶつけられるものは何もなかった。だって、明らかに悪いのは兄貴であってあの誠 実そうな運転手は悪くないのだ。一体何を見つけたのだろう。もしかしたら死んでし まった結婚相手かもしれないと一瞬思って背筋が寒くなった。もし、本当に魂が存在 するなら兄貴を連れて行くのはやめてくれ。どんなに愛しくてもあの人は俺たちに必 要なんだ。ここに、兄貴を想っている人がいるから、だから連れて行かないで。その 手にある兄貴の半分を返してほしい。俺たちは生きているのだから。生きていさえす れば何とかなると信じているのだから。 「銀時」 俺の数歩先を歩く銀時の表情は見えない。俺が少し速度を速めれば追いつく程度な のだが正直その顔を見るのが怖かった。 「事故、お前のせいだとか思うなよ」 何だよそれ、別にそんな風に思ってねーよ、その声には常より生気がなかった。や はり気になって少し速度を速めて銀時に並ぶ。銀時はどんな顔もしていなかった。俺 と銀時はほぼ同じ背だが俺のほうが少しだけ低い。日を跳ね返して輝く銀糸の髪が本 当に好きだった。あ、と呟いて銀時が足を止めるのにつられて俺も立ち止まった。顔 だけこちらに向けてあのさ、としゃべり始めた。 「あの曲、まだできてないんだけど、晋介さん、さ、昔バンドやってたらしくってい ろいろ教わったんだよ」 「そ、か。大分進んだみたいだな、兄貴がよく、歌ってた」 マジで、恥ずかしい、銀時は照れたように笑った。久しぶりにその顔が見れて少し 安心する。メロディーを口ずさんでやると驚いたような顔をしたからその顔が面白く て俺も少し笑った。 「同じ曲ばっか歌うから、俺まで覚えちまったんだよ。なあ、曲出来たら俺にも聞か せろよ」 少しの期待を込めて銀時を見ると、そうだな、と寂しそうに笑って言った。ああ失 敗したやぶへびだったかもしれない。やっぱり、銀時は兄貴が好きなんじゃないか。 それで、そのとき、やっぱり俺も頭がおかしかったんだと思う。 覚えているのは何となく苦しいと思ったことだけだ。 衝動的に銀時の襟をつかむと、気づいたときには唇に柔らかいものの感触があった。 銀時の唇だと理解したときにはちゅ、と音がして離れてしまっていた。銀時は何が 起きたか分からないという顔をしていた。俺だってわからない。つかんでいた襟を放 すとゆっくりと銀時が離れる。放心したように口元を触って、一瞬赤くなったと思え ばそのまま駆け出していた。 銀時の背中が遠くなる。俺はそこに立ち尽くすしかできなかった。待ってくれとは 言えなかった。だって、どうすればいい。どうにもできないじゃないか、どうしてい いのかわからないのに。 銀時が点なって見えなくなったころ、さあああ、と音がして空を見上げると晴れて いるのに雨が降っていた。傘は持っていない。狐の嫁入りという言葉を思い出す前に 目から熱いものが溢れていて止めることが出来なかった。雨水と混ざって服にしみこ んでいく。何故泣かなくてはいけないのかわからなかった。悔しさと悲しさと期待と 不安が全部まぜこぜになって腹の中を回っていた。唇は冷えてしまってもう感触も残 っていない。どれだけそうしていたのだろう、雨が止むまで涙を止めることは出来な かった。 そして、それ以来銀時とは会っていない。月曜、登校すると銀時の姿はなく担任が 銀時は引っ越したとだけ伝えた。理由とか引越し先だとかも説明したような気もする がはっきりとは覚えていない。誰もが無関心でざわざわと授業の準備に忙しい中で俺 だけが動くことが出来なかった。それは確かに曲を聞かせるもくそもないしでも、決 まっていたのなら言えよという話で。ただあの寂しそうな笑みの正体は都合よく解釈 すればこのことだったのかもしれないとも思う。あの表情がどちらを意味するものだ ったのか、未だに分からないままだ。 ← → |