東京に越してから4年が経つ。
 その間、俺がここで得たものは何一つなかった。


増大する青、そして 6



 東京に越してきてからろくなことがない。高校を卒業するとともに義務は終えたと
ばかりにおば夫婦の家を追い出され一応専門学校の学費だけは分捕ったものの家賃ま
では出してもらえずバイトしながら原チャで通学する日々。最初の家は家賃2万風呂
トイレ共同四畳半の木造のボロ家だった。次はもうちょっとましなところだったがわ
けあり物件で夜中に酒も薬もやっていないのに幻覚を見る始末。あのくそばばぁども
は俺を殺す気か。その虐待ともいえる冷たい仕打ちに復讐心をめらめらと燃やしつつ
も耐え続けその次に越してきたのがここだ。そこそこ新しいし本来なら家賃もお手ご
ろ、のはずが現在俺はバスに乗る金もないのが事実。手に職つければ適当なところで
働けるだろうと思って美容学校に行ってみたものの、どこもスタッフは一杯でやっと
のところで雇われたのは潰れそうな美容院で客は一人も来やしないわ時給は安いわ雑
用でこき使われるわで最悪だった。美容院ってのはあれだ、ヤクザかなんかだろ。
 最初は違ったのだ。俺は音楽で飯を食っていこうと思っていた。それが難しいこと
だとしても何とかやっていけるものだと、希望に満ち溢れていたのだ。それが今では
バイトをしながら売れないバンドを続ける日々。音楽という分野の底辺の底辺でやっ
と生きている。何一つうまく行くことなんてない。現実なんてそんなものだ。
 エンプティーぎりぎりの原チャで家路を急ぐ。あるもの全部着込んできたというの
に寒くて仕方がない。夜勤明けで眠い目に明るくなり始めた空がまぶしかった。今日
は割に早く上がれたほうだといっても、時計は4時を指している。移動を含めて10
時間勤務は辛い。これで時給がよくなければ既にやめているところだ。高架下の暗が
りには酔いつぶれているオヤジやそれにたかる頭の軽そうなお兄ちゃんたち(俺も似
たようなもんだ)がそこここに転がっている。そんなものは日常茶飯事で完全無視を
決め込んだ。ああいう類にはかかわらないに越したことはない。義侠心溢れるダチが
そいつらを追い払ったことがあると自慢げに話しているのを聞いたことがあるがそい
つは数日後見事に顔を腫らして俺の前に現れた。そいつらを蹴散らしてかつその後の
報復を全て避けきる自信がない奴は手を出さないほうが身のためだ。そうすれば少し
の良心の痛みと引き換えに身の安全を確保できる。かくて俺は東京砂漠を生き抜いて
きたのだ。ここでうまく生きるコツは外側との戦いではなく内側の戦いに勝利するこ
とだ。うまく、狡猾に、自分をごみと同じと思うことでようやく生きて行ける。
 自宅に一番近い高架の下にも明らかに酔いつぶれた女が一人転がっていた。ミニの
スカート、ヒールの高い靴、シャツにジャケットを羽織っているだけの見るからに寒
そうな格好だ。それでもそいつは俺じゃないから勝手にしてくれという話だ。そこで
寝ているそいつが悪い。俺の知ったことじゃない。第一俺は夜勤明けで疲れて眠くて
寒いのだ。明日、というかもう今日だが今日も6時集合のバイトを入れている。遅く
とも4時に起きるとして寝るのは多分7時ごろだから久しぶりに9時間は眠れる計算
だ。それをふいにしてまで助ける義理も人情も持ち合わせてはいない。おまけに意識
のない女をどうやって原チャで運べというのだどだい無理な話じゃないか。などと悩
み始めたのが運のつきで忘れるにしては後味の悪い話だ。顔まで見てしまった(結構
美人だ)。結局俺は原チャをアパートに置いて引き返すことにした。救いたいのは彼
女じゃなくて俺なのかもしれない。
 高架下に戻るとさっき女のいたところに男の影が見える。青島かぶれのアーミーコ
ートに細身のジーンズをはいたいかにも頭の軽そうなおにいちゃんだ。だいじょうぶ
ですかーという声も聞こえてきて思わず足を止めた。よかったねおねーさん優しいお
兄ちゃんがいてとりあえず凍え死ぬことはないみたいだよ。とはいえ得体の知れない
人間を家に上げないで済んだ安堵と振り絞ってやっと一滴出た親切心を無碍にされた
自分勝手な苛立ちが入り混じって非常に複雑な気分だ。かえって酒でも飲んで寝よと
思っていたのだがそのお兄ちゃんの様子がおかしいのに気づいてしまった。だいじょ
うぶですかーと声をかけながらもその辺に放ってある女のかばんをあさっている。お
いおいそれ立派に犯罪ですよお兄ちゃん、そこのお姉さんも早く気がついて。女は意
味不明のうめき声を出して身をよじるが意識を取り戻す気配はない。どうする。とめ
るか。逃げれば楽だ、でも。
「おい」
 結論を出すより先に声を出していた。アーミーコートがこちらを向く。どこにでも
いそうなおにいちゃんだがやせっぽちで気が弱そうだ。
「あんた、この人の知り合い?」
「別に、違うけど」
 アーミーコートは手にした財布と俺の目線の間で葛藤していた。金はほしいが自分
よりがたいのいい俺に完全に押されている。普段ぱしられてそうだし多分あいつくら
いなら俺でも何とかなりそうだ。もじもじと居心地の悪そうに落ち着かない視線を漂
わせている。しばらくそこで悩んだ挙句アーミーコートは財布を置いて逃げていった。
まるきりハイエナだ。俺はそいつのことを哀れだと思ったが、一度女を無視して帰ろ
うとした俺も結局は同じ穴のむじななのだ。あいつを哀れむ権利は俺にはない。
 完全に力の抜けた女はひどく重かった。ぐにゃぐにゃと不安定でアンプや機材の比
ではない。なんとか靴だけは履かせたものの自分で歩けるほどには回復していないよ
うで仕方がないから肩を貸して半ば引きずるようにして歩いた。ヒールの先のほうが
削れているのが目に入ったがこの際仕方がないだろう。何とか家の中に引きずり込ん
でベッドに放り出す。男ならベルトを緩めたりしてやったほうが楽かもしれないが相
手は女だし後で騒がれても面倒だ。一息ついて時計を見ると既に6時だった。朝飯も
酒も全部なくなったなと思いながらもベッドを占領されているのでつめたい床で泥の
ように眠った。

*

 かたりと物音がして目を覚ます。とっさに時計に目をやると12時、まだ昼だった。
カーテンの隙間から弱弱しい冬の光が差し込んでいる。かなり深い眠りだったようで
夢も見なかったし心なしか頭がすっきりしている。女はというとすっかり目を覚まし
てここがどこだか分からないという顔をしていた。明るい日の下で見ると彼女は女と
いうよりは少女というのにふさわしい。みたところまだ高校生くらいだ。さっきの音
は彼女の起きた音だったのだろう。彼女は俺が身を起こして初めて俺がいると気づい
たようで驚いた様子だった。
「目、覚めた」
 彼女はこくんと一つうなずいた。俺は冷蔵庫からまだ封の開けていない水を取り出
して彼女に渡した。酔いつぶれて寝た朝の水のうまさは俺もよく知っている。
「それ、飲んだら」
 ありがとう、呟いてからぱきりと封を切って水を飲み始めた。一口飲み込むごとに
日に焼けてないのどが動く。見ていると俺も飲みたくなってもう一本取り出して口を
つける。部屋は寒かったが冷たい水が気持ちいい。彼女は半分ほど飲み干してから一
息ついた。
「名前は」
「てつこ。鉄の子供で、鉄子っていいます」
「俺、銀時。高校生?」
「高校生、です。あの、」
「親御さんには言わないよ。ってゆーか知らないしね」
「そうじゃなくて」
 彼女、鉄子はいったん言葉を切ってこう訊いた。

 お兄さん監禁とかする人じゃないよね。

 あまりの言葉に思わず唖然とする。唖然という言葉が当てはまる状況はそうないだ
ろうがまさに今がぴったりだ。確かに俺は男の一人暮らしで鉄子ちゃんは高校生なわ
けだけどいくらなんでもそれはないだろう。よりにもよって監禁って。そういう趣味
はないはずなんだけど。第一俺の好みは大人の女であってロリコンではないし、まあ
過去にただ一人だけそれから外れに外れた奴もいたわけだが。
「そう見える」
 彼女は遠慮がちにうなずいた。しょっく。俺は乾いた笑いを力なく吐き出すしか出
来なかった。女子高生恐るべし。
 鉄子の家はこの近くで高校に通うために下宿しているのだと教えてくれた。ご両親
は既に亡くなってしまっているのにひとりでこんな街で暮らしている。昨日はクラス
の打ち上げで少し呑みすぎてしまって記憶が途中でなくなってしまったそうだ。警察
に見つかんなくてよかったね、彼女は疑って悪かったと言って笑った。ちゃんと、将
来の夢もあって実家の工場を継いで兄と一緒に経営したいのだと言う彼女をまぶしく
思う。
「鉄子さんはさ、」
「はい」
 彼女に一つだけ訊いてみたいことがあった。それは、嫌なことがあったり失敗した
ときにどうするか、だ。鉄子は突然そんな意味のわからない質問をした俺を不審に思
うでもなく少し考えてこう言った。

 目を閉じて、一番好きな自分を思い浮かべる。そうすると、少し元気になる。

 鉄子を彼女の知っている道まで送って今夜のバイトの準備をする。少しだけカーテ
ンを開けて色の薄い空を眺めた。冬の太陽の光は俺まで届きそうにない。でも鉄子に
とってはこれでも十分な光を得られるのだろう。好きな俺がない俺はじゃあ一体どう
すればいいんだろう。俺はいつでも俺が嫌いだった。優柔不断で向こう見ずでなのに
臆病で、今もどうしようもない俺が。