増大する青、そして 8


  駅前は昼休みの終わりに急ぐ会社員の群れでざわついている。中にはさぼりだろ
う制服姿の女子高生の姿もちらほら見えた。楽しそうに会話をしている彼女らの中
にあっておれ一人が憂鬱だった。時計を見れば後少しで1時。このまま土方が来な
ければいいと思う。がしかし、その人ごみを縫うように土方は約束の時間に寸分遅
れずやってきた。その手には小さな鉢植えを持っている。今更ながら見舞いに行く
のに何も見舞い品を持ってきていないことに気づいたが、買って行くのも面倒だし
別にいいかと諦めた。土方は禁煙の広場で堂々と一服してから煙草の死骸を携帯灰
皿に押し付けてそれじゃ行くかと歩き始めた。空は嫌味なほど晴れていた。
 晋介さんは俺たちの地元の病院から転院して今は千葉県にいた。電車とバスを乗
り継いで2時間かかると言っていた。実家からは3時間かかるから土方のお母さん
は病院の近くに家を借りて住んでいるそうだ。お父さんは相変わらず単身赴任で帰
ってこない。
 父さんはもう諦めてんだ。もう絶対起きねぇって。今度の転院だって、ちょっと
でもよくなるようにって、母さんが独りで決めたんだ。父さん、さ。兄貴が帰って
きたときだってそうだった。チラッと顔見てそれで終わりだぜ。あの人は欠陥品に
は興味ねぇんだ。それどころか時々、自分にしか興味ないんじゃねぇかって、思う
よ。中学んときにさ、単身赴任って聞いたときは正直安心した。もうあの人の冷た
い目、見なくてすむんだ、て。
 二時間。土方は時折思い出したように話した。俺の知ってること、知らないこと、
家族の現状。俺は聞いてるばかりで土方は俺に何かの報告をしているようだと思っ
た。このまえ土方にキスしたのにそれをなんとも思っていないようにふるまわれて
俺はどこかが鈍くうずくのを感じた。電車が都心から離れるにつれて車内に人がま
ばらになってきた。人のよさそうな爺さん、かしましい女子高生、スカートの長い
おばさん、でっかいギターをしょった学ランの男子高生。誰もが自分の世界に閉じ
こもっていて誰かに対して無関心だった。土方は片手をジャケットのポケットに手
を突っ込んだままどこか遠くを見ていた。ドアの近くに座っているから外に出され
た左手が寒そうだ。俺は手を繋ぎたいと思ったが右手はしばらくむなしく空中を泳
いだ後、振り払われるのが怖くて結局何も出来ずに再びコートの中に戻った。電車
はごとごとゆれながら田園風景の中を進んでゆく。代わり映えのしない風景を見る
のに飽きてなんとなくギターをしょった学生を見ながらそれを弾き始めたころのこ
とを思い出した。あのころはやたらと必死で一音一音を確かめながら追っていた。
一番音楽に真摯に向かっていた。1曲覚えるごとに嬉しくて仕方がなくて誰かに聞
かせたくてしょうがなかった。根拠もなく俺にも何かが出来ると信じていた。初め
て曲を作ったのもあのころだ。梅雨の時期だった。濡れた土のにおいも鮮やかな緑
もけたたましい水音もすべて脳裏に焼きついている。もう今ではどんな曲だったか
おぼろにしか思い出せないがそれでも、完成したときの達成感と過剰なまでの自信
は覚えている。あのころはよかったとか爺みたいなことは言わないがひどく懐かし
い。そう遠い過去ではないのにもう10年くらい経っているような気がした。
 アナウンスはもうすぐ目的の駅だと告げていた。電車の中には死にそうな爺婆と
やつれたおばちゃんが目に付いた。土方は窓の外を興味なさそうに眺めていた。彼
はあの約束をまだ覚えているだろうかと、ふと思った。

*

 平日のせいもあるだろうが院内はとても静かで動いているのは医師たちか僅かい
る見舞いの人間だけでここだけ別世界に切り離されているような感じがした。本当
は生きている人間が一人もいないのではないかと危惧さえ感じる。勝手知ったる様
子で(当たり前だ)すたすた歩いていく土方の後をあわててついていく。途中、や
っぱり動いている病人は一人もいなかった。それも当たり前で、ここは事故などで
脳障害を負った人だけが入院している病棟だそうだ。土方は淡々とした声でそう言
った。音の少ない廊下には自分の足音ばかりがうるさく響いて知らないうちにそろ
そろと足音を抑えるようにして歩いていた。
 晋介さんは病室で静かに眠っていた。あのころ既に日に焼けない肌は白く透き通
っていたのだが今は不健康に白かった。もともと骨と筋肉で構成されていたぎりぎ
りとひきしぼられた針金のような体はさらに窶れ、あごは細くとがり、のどの骨に
張り付くようにして存在する皮膚がかすかに上下してかろうじて生きていることを
示している。それなのにその表情は幸せそうにかすかに笑んで見えるのは気のせい
だろうか。
 異世界に切り離されたような病院の中でもさらに晋介さんの病室だけは世界から
見放されたような異質な空気があるような気がした。見知った人間がそんな風に眠
っているのがショックだったからかもしれない。
「兄貴、笑ってるみたいだろ」
 土方は持ってきた鉢植えを窓際に置いた。その言葉にどう反応していいか迷って
いると別に感じたままのこと言えよと苦笑した。
 母さんも、時々そう言うんだ。やっぱり、笑ってるように見えるよな。
 土方は寂しそうに笑った。会ってから何度目かに見るその顔に、心臓が落ち着か
ない。
 ああ、やっぱりまだ、好きなんだ。
 あれは一過性の感情なんかじゃなかったんだ。
 だとしたら、だとしたら。
「銀時?」
「あ……なんでもない」
 こんなときに、不謹慎だ。無理やりそれた思考を元に戻す。何か材料はないかと
病室の中を見回した。葉の落ちた木、白いカーテン、硬いソファー、だめだ、こん
なのじゃ。さまよう視線がとまったのは土方の鉢植えだった。シクラメンだ。赤い
花がみずみずしく咲いている。白を基調とした病室にひとつだけ生きた色を与えて
いた。そういえば、鉢植えは見舞いの時には縁起が悪いと言われていることを思い
出した。まさかそんなことはないだろうけど土方は晋介さんが眼を覚ますのを望ん
でいないのだろうか。視線に気づいた土方は、俺あんまこれないし、兄貴が好きな
花だから、と教えてくれた。懐かしそうなその横顔はやはり寂しそうに笑んでいた。
 その顔はよく覚えていた。俺が、まだ土方と同じ高校にいたとき、晋介さんのこ
とを訊いたときによくしていた顔だ。多分土方も晋介さんのことが心配で仕方なか
ったのだろう。あのころ晋介さんは笑っていて、でもその表情はどこか虚ろを感じ
させる怖い笑い方だった。俺はその笑い方が嫌だった。あのころ晋介さんはふわふ
わと不安定で突き放せばどこまでも飛んでいってしまいそうな人だった。昔はそん
なことはなかったのに。もっと、昔は。
 不意に一つの考えが頭をよぎる。それはとても嫌な発想だった。三文芝居によく
ありそうな設定で、でも今まで感じていた違和感も何もかも全てその一言で言い表
せる言葉だった。それでも、考えがまとまる前に言葉は音になっていた。
「晋介さん、自分から世界を遮断したんだと思う。多分、夢の中で晋介さんの奥さ
んだった人と会ってんだよ。じゃなきゃそんな風に笑わねぇよ。それに。それに、」
 あの頃から晋介さん、別の世界にいるみたいだった。生きながらも死の世界に夢
を見ているような人だった。
 土方は驚かなかった。一瞬悲しそうな顔をして目を伏せた。ただそれだけだった。
 そっか。しばらくして土方は小さく声を出した。確かな足取りで俺のいるソファ
に座る。電車にいるときよりも遠かったがもっとずっと緊張した。土方は水(お茶
だったかもしれない)を勧めてくれたが何となく断った。一人分だけコップに注い
で喉に流し込む。白い喉が水を飲むごとに上下する。コップを窓際に置く音が静か
な病室に異様なほど響いた。そのときになって今更断ったのを惜しく思った。外は
あんなに寒いのに効きすぎた暖房に喉は渇ききっていた。
「何となく」
「うん?」
「俺も、何となく、そうなんじゃねぇかって思ってたんだ。何となく、なんだけど。
本当は兄貴、こんな長い間植物状態になるほど頭、強く打ってなかったんだ。数ヶ
月すれば目覚めるんじゃねぇかって。なのにこんなに長い間目覚めないのは、自分
で目覚めるのを拒んでるんじゃねぇかって、ここに移ってから1年半になるけど、
精神病棟に移る話も出てんだ。母さんも、言わないけど多分、うすうすは分かって
んじゃねぇかな。本当は、あの頃から、帰ってきたときから、兄貴は死にたいんじ
ゃねぇかって思ってた。何となく、世界と兄貴との間に、薄い膜みてぇなもんがあ
る気がしてたんだ」
 そこまで一気にしゃべって、それから一度土方は言葉を切った。病室の外ではカ
ラカラと看護士が何かを運ぶ音がしていた。
「でも。俺たち、は、俺は。それでも兄貴に生きていて欲しかった。どんな形でも
いいから、生きていて欲しかったんだ。兄貴が好きだったから、大事だったから。
でも、こんな風になってまで生きてるんだったら、いっそ殺して楽にしてやったほ
うがいいんじゃねぇかって、時々思う。でも、できねぇんだ。無理なんだよ。うっ
すらだけど、脈があるんだ。生きてんだよ、この人は。こんなもんエゴ以外の何で
もねぇよ。でも、兄貴が笑ってるから、また笑って欲しいから、」
「もういい」
 もういいよ。俺はこれ以上土方の話を聞きたくなかった。今度は、土方は泣いて
なかった。だけど泣きそうな顔をしていると思った。今度また、土方が泣いてしま
ったら今度は歯止めを利かせる自信はなかった。土方は何か言いたそうに唇を開い
て、そのまま閉じてしまった。彼の唇に飲み込まれた言葉はどんなものだったか、
自分でしゃべるなといっておきながら気になって仕方がなかった。

 結局病院の中にいたのは1時間だけだった。動かない喋らない眠り続ける晋介さ
んを前に続けられる話題など何もない。美人の看護士が点滴を交換しに来たのを機
に病室を後にした。それでも冬の日は短く、既に辺りは暗くなり始めていた。電車
には通勤帰りのスーツ姿ですっかりすし詰め状態だった。帰りの電車の中で土方は
今度は一言も喋らなかった。それでも俺は苦痛ではなかった。他人よりちょっとお
しゃべりな性質だというのに、だ。場所も状況も違うのにまるで高校の頃に戻った
ようだった。ひと息臭い電車の中で不快そうに顔をしかめるその表情をひどく愛し
いものに思った。
 別れ際、土方は、また一緒に呑もう、と言って乗り継ぎの電車に向かって走って
いった。あっという間にその背中は人ごみの中にまぎれてしまう。平均的ともいえ
る彼の背は似たようなコートの中に完全に溶け込んでいた。別れるのが惜しかった
のに引き止める時間もなかった。ただ、その後姿には先ほど病院で感じた危うさは
欠片も残っていなかった。多分、ずっと誰にも言えなかったことを言えて安心した
のだろう。それだけ、俺は彼の中に踏み込むことを許されたのだろうか。それに、
意図してそうしたのか、土方は笑っていた。
 また呑もう、だって。
 期待しても、いいのだろうか。
 足掻く機会を与えられたと、思ってもいいだろうか。
 こんな俺でも、何かを望んでもいいのだろうか。
 紺色から黒へと色を変えつつある空に、きらきらと星が瞬いていた。東京とは名
ばかりのこの街だからこれだけ星も見えるのだろう。ネオン街にいたのでは絶対に
気づかなかっただろうその空は、俺たちの田舎と同じ風景を見せていた。